大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』で渡辺謙が演じる老中・田沼意次。第28話では、息子の意知を斬られ、慟哭する意次の姿が涙を誘いました。ところで、田沼意次が推進した“重商主義”とはどのようなものだったのでしょうか。『江戸の仕掛人 蔦屋重三郎』(城島明彦 著、ウェッジ刊)より抜粋してお届けします。
田沼時代と蔦重
蔦重が生きた江戸中期に限らず、いつの時代にもいえるのは、「政治に左右されない文化はない」ということだ。では、蔦重が活躍した時代は、どういう時代だったのだろう。その話に入ろう。蔦重が物心がついた頃、幕閣の最高位「老中」として権力を握っていた人物は、8代将軍吉宗と同じ紀州藩出身の田沼意次である。
吉宗の後を継いだ将軍が9代・10代と続いて凡庸だったこともあって、意次に権力が集中した。蔦重にしろ、京伝にしろ、馬琴にしろ、歌麿にしろ、写楽にしろ、当時の文化を創ったクリエーターたちは、例外なく、田沼意次の政治体制の影響を受けた。
田沼家は代々、紀州藩の足軽。武士の階級では軽輩に属する低い身分の家柄だったが、意次の父意行の時代に突然、〝運命〟が激変。藩主が将軍に選出され、幕臣となった。その藩主が吉宗で、8代将軍になるのは1716(享保元)年である。
そんな田沼家に〝運命の子〟意次が生まれるのは、その3年後である。意次は17歳になると、将軍の世子(世継)徳川家重の小姓となり、江戸城の西の丸に移ることになる。そして家重が1745(延享2)年に9代将軍になると、意次は本丸に移り、そこから出世双六がスタートする。21歳で御小姓組番頭格、30歳で御小姓組番頭に昇進。蔦重が生まれたのは、その2年後の1750(寛延3)年である。
意次の昇進は続き、33歳で御側衆、1758(宝暦8)年に40歳を迎えると、とうとう大名になった。遠江国(静岡県)の相良藩1万石の大名である。
蔦重はというと、そのときは9歳だから、大人たちの会話を盗み聞き、詳細まではわからないまでも、飛ぶ鳥落とす勢いの田沼意次の名前は何度も耳にしたに違いない。
蔦重は、7歳のときに両親が離婚し、吉原遊郭にある引手茶屋の一軒を営む親戚の家に養子としてもらわれていたから、世間一般の同年代の子どもとは比べものにならないくらい大人びていたであろうことは想像に難くない。
世にいう「田沼時代」の始まりは、今日では意次が49歳で側用人として起用されたときからとし、5年後に54歳で老中に就任して全盛を極め、68歳で失脚したときをもって終わりとする。つまり、1767(明和4)年から1786(天明6)年までの19年間とするのが一般的である。蔦重の年齢でいうと、18歳から37歳までの青壮年期が「田沼時代」だ。
