南畝はもともと幕府の御家人でありながら、戯作文藝の道で若い才覚を花開させ、平賀源内が序文を書いた『寝惚先生文集』で一躍注目される作家となった。
勘定奉行につとめて謹厳な能吏として役人生活を送るかたわら、夜は「狂歌連」と呼ばれたメディア界のつらなりの中でいわばスター作家として振る舞っていたが、天明7(1787)年に突然、狂歌を絶って官吏を究める道へ歩みはじめる。
田沼政権の終焉で松平定信の寛政の改革が始まった年であり、全国的な打ちこわしや天明の大飢饉の深刻化という時代背景がある。すでに出版統制の気配が広がり始めた空気をとらえて、南畝はいち早く「転向」したのである。
寛政6(1794)年、46歳の南畝は松平定信が人材登用のために設けた第2回の学問吟味に応じて合格し、御勘定所取調御用などの要職を勤めた後、長崎奉行所へ出役した。ここでは通商を求めて皇帝の国命を帯びて寄港したロシア使節のレザノフを迎えて交渉に臨んだ。すでに鎖国体制が揺らぎ、徳川幕藩体制は危機へと向かいつつあった。
南畝は75才まで生きた。
戯作者たちをかかえた「蔦重」の出版事業が、こうした出版統制によって翳(かげ)りを帯びるのは必然であった。花柳界を足場にした浮世絵や狂歌の出版市場が次第に低迷を余儀なくされてゆくなかで、蔦重は寛政9(1797)年に逝った。
「雪月花」三部作の〝余生〟
歌麿が晩年の栃木での隠棲生活の間に描いた肉筆浮世絵の大作「雪月花」の三部作は、それから数奇な運命をたどった。
明治12(1879)年11月3日にゆかりの深い栃木の成願寺で展示されたのち、三作は1900年パリ万博で日本美術の紹介者として知られた美術商、林忠正によってフランスに持ち込まれた。このうち「品川の月」は1903年に米国の実業家、チャールズ・ラング・フリーアが購入。日本や中国美術を中心にした蒐集品を収蔵するフリーア美術館をワシントンに開いたのちも「門外不出」の遺言により外部には貸し出されていない。
「吉原の花」はフランス人蒐集家の手を経て、同じ米国コネチカット州のワズワース・アセーニウム美術館に所蔵されてきた。
残るもう一作、「深川の雪」は、やはり1900年パリ万博で日本美術の紹介者として知られた美術商、サミュエル・ビングが購入、日本人蒐集家の長瀬武郎の手にわたり、1948年に東京・銀座の松坂屋で開いた展覧会に出品されたのを最後に久しく所在不明だった。それが、近年岡田美術館(神奈川県箱根町)が入手、購入して公開されている。
出版統制に沈んだ歌麿がその「不在」の証しにと描いた「雪月花」という肉筆浮世絵の3点は、流転のあげく奇しくも太平洋をはさんだ日米の3つの美術館で〈余生〉を送っている。
