2025年12月5日(金)

絵画のヒストリア

2025年9月28日

 寛政2(1790)年からは「改(あらため)」という検閲制度が導入された、浮世絵版画と洒落本や黄表紙など地本の挿画に対し、事前の検閲で「極」という改印が押される。

 徳川幕府のこうした出版統制は、具体的にはぜいたくな遊興の賛美や猥褻な表現、あからさまな世相風刺や政治権力への揶揄など、「不埒の体」と呼ぶ風俗紊乱を対象とした。爛熟する町人文化に向けた幕府の警戒感がその背景にあったことは容易に想像できよう。

喜多川歌麿「当時三美人 富本豊ひな 難波屋きた 高しまひさ」1973頃 大判錦絵 ボストン美術館蔵(Kitagawa Utamaro, Public domain, via Wikimedia Commons)

 さきがけとなった享保7(1722)年の出版令では①儒書、仏書、医学書、歌書などについては異説の禁止②好色本の絶版③家系や祖先についての流布の禁止④徳川家に関する出版の禁止――が具体的に版元に統制の基準として示されている。

 こうしたのちの寛政の改革に伴う出版統制で大筆禍の当事者となり、絶版処分と財産の没収に憂き目にあったのが蔦重こと、蔦屋重三郎その人であった。

 絵師の歌麿や北斎、広重ら画家ばかりでなく、大田南畝や山東京伝、十返舍一九や滝沢馬琴といった人気の戯作者たちのパトロンとして、出版事業で一世を風靡した蔦重は寛政3(1791)年3月、山東京伝の「仕懸文庫」「錦之裏」などの出版で江戸町奉行の吟味を受け、風俗紊乱のかどで重過料を受けた。

 歌麿の身辺にも類が及ぶのは必至であった。

栃木に避難し、強烈な皮肉

 再び、隠棲先となった栃木の釜善の離れで「雪月花」の三幅対を前に、江戸からの客人を相手に続く歌麿の回想を聞こう。

〈この大広間で狂歌絵本の小さな下絵を描きながら「ああ、もう小さな絵には飽き飽きした。たまには襖絵ぐらいの大画面を描いてみたいものだ」ってね、つい声を出してしまいました。そしたら脇におられた善野様が「ぜひ、ぜひ、お描き下さい。うちですべての用意を致しますから」とおっしゃる。それでこの連作がはじまったという次第です〉

 あらためて、「雪月花三部作」を歌麿の謎の多い来歴に重ねてみると、幕府の出版統制という画業の「影」との深いかかわりをうかがわせる材料がいくつか浮かび上がる。

 まずは三作とも「歌麿」の落款など、作者を示す署名がないことである。栃木の豪商、善野伊兵衛の依頼で描かれ、流通を目的としない個人の私蔵作品として、統制を逃れるためにあえて無署名としたという推測が可能である。

 三作の制作時期からみると、「月」が1788年ごろ、「花」が1791~93年ごろ、「雪」が1802~06年ごろで、蔦重の寛政の大筆禍や歌麿自身の筆禍事件と重なり、幕府の言論統制の波が押し寄せた時期と符合する。

 栃木は日光への例幣使街道の要衝ではあったが、歌麿にとっては馴染みの薄い鄙びた土地であったろう。日に日に窮屈さが増す都を離れて、この地に「釜伊」というパトロンを得た晩年の歌麿が、お江戸の華を思い切り描いて見せたのである。

 とりわけ「吉原の花」は版元の蔦重の大筆禍と前後する時期に制作されているが、将軍家の女性や大奥の女中が花見の大宴会に興じる姿が描かれる。栃木というアジール(避難所)を得て、歌麿が放った痛烈な権力への皮肉と読むこともできる。

出版統制の荒波を受けた戯作者たち

 「絵本太閤記」の錦絵を描いて入牢、手鎖の刑に処せられてから3年後の文化2(1805)年9月20日に歌麿は没している。50才前後だったとみられる。

晩年の歌麿が隠棲した栃木市で行われている「歌麿まつり」の風景(栃木市観光資源データベース蔵ナビ!より)

 蔦重の周辺にいて、地口や草双紙などで才覚を羽ばたかせていた戯作者たちも、出版統制の荒波を受けて大きくその運命を転じていった。

 「歌麿の生涯」のなかで、栃木に隠棲する歌麿を江戸から訪ねた戯作仲間の一人、山東京伝は文化4(1807)年に曲亭馬琴とともに、改(あらため)の掛名主にあてて口上書を提出した。いわば「お上」の出版統制への恭順を示す始末書である。

〈禁忌のことは第一に順守し、版下を書いてからも版元へ精々相談し、写本は申すに及ばず、入木(改作部分の埋め木)直しにいたるまで職人を私どもの家に招いて指図し、厳しく確認しております。利益に迷い、私どもの言うことを取り上げない版元がいれば断りを入れ、翌年から著述の稿本は渡さないように相談しております〉(『類集撰要』より現代語訳、前掲書)

 もっと劇的に歩みを一転させたのは、蔦重の下で歌麿のパートナーでもあった狂歌師の大田南畝である。「世の中に蚊ほどうるさき物はなし ぶんぶというて寝つかれもせず」と詠んで、文武両道を唱えた松平定信の寛政の改革を皮肉った蜀山人の名で知られる。


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