2024年12月23日(月)

足立倫行のプレミアムエッセイ

2020年7月26日

(Vyacheslav Dumchev/gettyimages)

 夏休みになると思い出す光景がある。

 小学校低学年の頃、故郷(鳥取県境港市外江町)の海辺でのことだ。

 島根県の松江市から美保関町まで往復する「合同汽船」という貨客船があり、境水道に面した我が町は定期船の寄港地だった。

 夏になると、イタズラ好きな(命知らずな?)地元の子どもたちが、桟橋付近の海面で待ち受けていて、出入りの船によじ登り、甲板や客室の屋根の上から海へ跳び込む。

 もちろん、船員に捕まれば頭をゴツンとされる。スクリューに巻き込まれれば重大事故になるので、当然のことである。

 だが中学生たち(少数の小学生も)は、巧みに船員の追跡を潜り抜け、時折歓声を上げながら大きく弧を描いて海へ跳び込む。

 実にかっこよかった。

 真っ黒に日焼けしたパンツ一丁の彼らは、同じ「男子」ではなく一段上の「若者」に見えた。

 対して、桟橋の片隅でぼんやりと眺めていた私は、跳び込むどころか泳ぎさえもできなかった。小学校低学年ということもあるが、そもそも運動神経がからっきしダメなのだ。

 「いつになれば自分も“男”になれるのか?」 

 夏休みの桟橋は、屈辱と憧憬の場所だった。

 ただし、山陰の半農半漁の小さな町であっても、故郷それ自体は私は好きだった。

 境水道には九州・東北のみでなく外国船も往来するし、山陰の文化の中心地・松江ともつながっている。海を仲立ちとして、私の町は「世界」に開かれていると思った。

 改めてそう感じたのは、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の著作を再読したからである。 

 明治24年(1891)8月、松江中学の英語教師となったハーンは、松江から蒸気船に乗って中海を縦断し、境港を経由して美保関を訪れた。北前船の寄港地で、『古事記』のコトシロヌシ(事代主命)にまつわる神話の地でもある美保関が気に入り、その後熊本県に赴任してからも再訪・再々訪を果たしている。

 ハーンの最初の著作『知られぬ日本の面影』に収められた「美保関にて」は、その第1回と2回目の訪問記をまとめたものだ。

 途中、右手の「長くのびる伯耆(ほうき)の浜」が弓ヶ浜半島(鳥取県境港市)であり、左手の「峨々とした緑の海岸」が島根半島で、「澄んだ深い水をたたえた」「可愛らしい小さな入江」が、ハーンに言わせれば「雅趣に富める町―美保関」なのだ。

 ハーンはこの町で、美保神社に参拝をしたり船乗りの優雅な宴会を見物したりしているが、興味を持ったのは当地で鶏や卵がタブー視される伝承だ。昔、神社の祭神コトシロヌシが夜釣りをしていると、夜明けを告げるはずの鶏が鳴かなかった。帰りを急いだ彼は櫂を流し、手で漕ぐはめに。その結果、魚(鰐?)に手を噛まれた。以来美保関では、鶏や卵を嫌い、食べたり持ち込んだりを禁忌とした。

 茶目っ気を出したハーンが宿の娘に卵を注文すると、娘は「家鴨(あひる)の卵なら少しある」と答えた。家鴨も飼えない町だが、対岸の(我が故郷)「境の町から取り寄せる」のだ。

 つまり、ハーンが「古代のままに変わりない」と評した美保関と、対岸の境港はほぼ一体だった。

 それはそうだろう。境港市を含む幅約3キロ、長さ約20キロの砂洲の弓ヶ浜半島は、「国引神話」に登場する引き綱そのものだ。

 『出雲国風土記』(733年)によれば、古代出雲は小さな国だったので、ヤツカミズオミツノ(八束水臣津野)神が遠くから「国の余り」を引き寄せた。その4ヵ所のうちの一つが、高志(こし、北陸)から引き寄せ、伯耆の火神岳(大山)を杭にして、夜見(よみ)の島(弓ヶ浜半島)を綱にして手に入れたた三穂の埼(美保関)。

 奈良時代まで夜見の島(黄泉(よみ)の島?)と呼ばれた夜見ヶ浜(弓ヶ浜)半島は、古い時代には出雲世界の一部、辺境だったのだ。

 チェンバレンの英訳『古事記』を読んでいたハーンは、アマテラス(天照大御神)の子孫が今も出雲大社の宮司を続けている「神々の国の首都」に特別な関心を抱き、そこに暮らす人々に東西文明の基層的価値を見いだした。

 「日本人の魂は、自然と人生を楽しく愛するという点で、(略)古代ギリシャ人の精神に似かよっている」(前掲書の「杵築」)。

 ハーンはギリシャ人の母とアイルランド人の父との間に生まれた。

 古代ギリシャからは明るい多神教を、アイルランドの古いケルト民族からは妖精文化や「死と再生」思想などを受け継いだが、近代キリスト教社会ではこれらは異端。イギリス、アメリカ、西インド諸島と流浪し、仏教以前の八百万神の故郷・出雲へ来てようやく、自らの魂に相応しい場所を見つけたのだ。

 私の町は港町なので、人々の言動は松江ほど上品ではなく、割と荒かった。が、それでも私の子ども時代には、出雲弁の「だんだん(ありがとう)」が広く使われていた。

 夏休み。朝、母親から金ダライを手渡され、走って海辺へ行く。漁師がアオデ(青いワタリガニ、タイワンガザミ)の漁から戻ってくると、隣近所に知らせがあるのだ。

 桟橋手前にカニ網をかけた竹竿があり、小母さんや子どもたちが漁師に群がっている。

 私も必死に背伸びして頭の上の金ダライを突き出す。ゼロの場合もあるが、運が良ければ脚のもげたのが1~2匹放り込まれる。

 「だんだん! だんだん!」

 もらえた時は心の底からそう言い、金ダライをカニが動き回るガシャガシャ音を勝利の行進曲のように聞きながら、家路につくのだ。

 当時の未舗装の海辺の通りは、遊び場兼労働の場であり、安らかな憩いの場でもあった。

 子どもたちがチャンバラをしたりメンコしたりする傍らで、大人は漁の準備や桶洗い、一列に座って牡蠣を剥いたりしていた。キセル直しや傘の修理の行商人が即席の店を開くこともあれば、夕暮れにあちこちでヒソヒソ話を交わす若い男女の姿もある。そして、のべつ岸壁から釣り竿を出す子どもや、日がな一日海を眺めている老人……。


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