2024年4月25日(木)

足立倫行のプレミアムエッセイ

2020年7月5日

 第2波、第3波の襲来は未定だが、第1波に関しては、新型コロナの国内の感染状況はだいぶ沈静化したようだ。

 こんな時期には、少し違った角度から今回の厄災を考えてみる必要もあるはず。

 自粛中に、新聞社の特派員がナイジェリアから伝えた地元民(男性)の声というのが、私にはちょっと引っかかった。

 「マラリアでは毎年何十万人も死んでいるのに外出制限なんてしない。なぜ、コロナだけ大騒ぎするのか?」

 なるほど、衛生状態のよくないアフリカではそういう意見もあろう、と思った。

 だが調べてみると、新型コロナ以上の死者を伴う感染症は実際に複数存在する。

 国連がSDGS(持続可能な開発目標)で「2030年までの流行終息」を掲げている3大感染症はマラリア、結核、エイズだ。

 2017年現在、マラリアでは年間約2億1900万人が感染し、約43万5000人が死亡。結核では約1000万人が感染し、約130万人が死亡。エイズでは約3690万人が感染し、約94万人が死亡している。

 これを書いている6月下旬の時点で、新型コロナの感染者は世界で約1000万人、死者は約50万人だから、その犠牲者をはるかに凌ぐ凶悪なパンデミック(感染者2億5000万人以上、死者250万人以上)が新型コロナとは別に毎年(今年は併行して)発生していることは、知っておくべきだろう。

 今回のコロナは新型で対処法が不明だったこと、感染爆発が(感染症が比較的少ない)欧米で起きたこと、ヒトやモノの移動の急激な停止で世界の社会・経済活動が麻痺状態に陥ったことなどで、病気の実態以上に人々の恐怖心が煽られた面もあるのではないか?

 3大感染症の中では、結核の死亡率の高さが際立っているが、実は日本においては、例年の結核による被害は今現在の新型コロナによる被害を上回っている。

 6月下旬時点の新型コロナの国内感染者は約1万8000人。死者は約1000人。これに対し近年の結核の国内感染者は年間約1万8000人、死者は約2000人なのだ。結核のほうが(あくまで現時点の統計数字だが)2倍も怖い、とも言える。

 しかも、この数字は戦後、ストレプトマイシンなどの抗結核薬やBCGワクチンによる予防対策が導入された後のもの。それ以前の、特に明治後半から昭和前期にかけては、結核は文字通り「亡国病」であり、日本人の死因の首位をほぼ独占してきた。

 結核は、細菌の結核菌が空気感染によって体内に取り込まれ、主に肺で増殖する。風邪に似た症状が長期化し、内臓・骨・脳などを侵す。最初の接触での感染は1~2割だが、菌は潜在し、体力の落ちた時に発症する。

 樋口一葉、石川啄木、正岡子規、中原中也など、若い世代の罹患が多いのも特色だ。

(gunaonedesign/gettyimages)

 この結核、古くから存在したが、全国に拡大したのは製糸(紡績を含む)工女によるとされる。

 明治末期の工女と結核を調査した石原修によると、工女総数約50万人のうち毎年9000人が死亡し、過半数が結核性と推計。年ごとの新工女20万人のうち8万人が帰郷工女であり、うち3000人を結核重病者とした。

 つまり、結核が全国に蔓延したのは、「(罹患した工女が)都市に流浪し、農村に帰郷して毎年毎年結核をばら撒く」結果だと、立川昭二『病気の社会史』(NHKブックス、1971年)は指摘する。

 では、製糸工女はなぜ50万人もいたのか? 明治末期の全工場労働者約80万人のうち約50万人が女性(=製糸工女)だった。

 なぜなら、文明開化、富国強兵を目指す近代日本にとって、生糸の製造は原料から技術、労働力まで自給できる唯一の産業であり、15~20歳の女子が低賃金で肉体を酷使して紡ぎ出す生糸は、当時の日本が外貨を獲得できる稀少な「国際商品」だったからだ。

 〈男軍人女は工女 糸を引くのも国のため〉

 山本茂美『あゝ野麦峠』(朝日文庫、1986年)掲載の『工女節』にあるように、明治日本の電信電話も、汽車も汽船も鉄砲も軍艦も、すべて年若い工女たちが買い揃えたもの、と言える。輸出生糸に依存したこの社会構造は、基本的に昭和前期まで続いた。

 製糸業の中心は諏訪湖畔の平野村(現、長野県岡谷市)だった。明治初期にフランス式の機械操糸機を改良し、安価で高性能な繰糸機を考案したのだ。200を越す製糸工場には、周辺の町村から工女が集まり、全国から原料繭(まゆ)も集積、「糸都(しと)」と称された。

 私は、フリーライターになった20代最後の年、取材で岡谷から松本、野麦峠を経由し、岐阜県古川まで、工女道を辿ったことがある。

 工女らは飛騨各地の寒村出身者が多く、彼女らが通ったのが野麦街道だ。工女募集地の古川から岡谷まで約140キロ、集団で移動し、途中の工女宿に泊まりながら3泊4日ないし4泊5日の行程。厳寒の2月に出発し、正月前の12月に帰郷するのが習わしだった。

 長野・岐阜県境の野麦峠(標高1672メートル)は、上り・下り各3キロほどの広葉樹林と熊笹の細い山道。私は熊には遭わなかったが黒斑と赤色の蛇(ヤマカガシ)は見た。

 路傍に石地蔵が並ぶ。雪の峠は険しく、行き倒れる者や谷へ転落する者が出た。また、熊笹の陰で流産・堕胎する娘もいて、峠の名は「野産み峠」からきた、とも言われる。

 しかし、中に少数だが「百円工女」もいた。100円で家が建つ時代、口減らしのためキカヤ(製糸工場)に出された娘が、技能を習得して稼ぎ、貧しい親に田畑を買い与えたり、地主にした例もあったのである。


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