足立倫行のプレミアムエッセイ

2020年2月22日

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(gyro/gettyimages)

 近所にある、息子が通っていた県立高校が、この3月末で閉校になる。

 この高校は、娘が通っていた県立高校と併合され新しい名称になっていたのだが、生徒数減少で別の高校と再統合されるのだ。

 子どもたちの母校の小学校も、閉校した小学校を吸収・再編し、名前が変わってしまった。

 私が暮らすS市は、人口規模が全国第19位の政令指定都市なのだが、それでも少子化の波はヒタヒタと足許に押し寄せている。

 時代の変わり目、なのだろう。

 思い起こせば、私の子ども時代は学校建設ラッシュの人口増大期であり、まったく逆の意味での時代の変わり目だった。

 1948年生まれの私は団塊世代。前後の1年を加えた3年間の出生数が圧倒的多数で、76年の堺屋太一氏の著作で団塊世代と括られたが、長い間ベビー・ブーム世代と呼ばれた。

 戦争が終わり、両親がさまざまな思いを込めて「増産」に励んだ結果だ。

 とにかく、小学校入学の時から1学級50人を越す満杯状態であり、教室も足りず、教師も足りず、校舎や学校も足りなかった。

 「君たちは、進学も就職も結婚も激しい競争が続き、死ぬ時の棺桶も奪い合いになる」

 と、先生たちに何度脅されたかわからない。

 ただ、小学校4年生まで過ごした山陰の半農半漁の町の状況はまだマシだった。

 自分がベビー・ブーム世代と実感したのは、横浜市六浦に転居した5、6年生の頃だ。

 隣接する横須賀市の小学校への越境通学だったが、学級数が10ほどあり、すでに完成していた鉄筋コンクリートの分校へ通ったり、午前と午後の二部授業を受けたりした。

 古い木造の本校と真新しい分校の距離は離れていた。ランドセルの他に給食袋や提出物を抱えながら、「何で俺たちは2つの学校に通うんだ!」と憤激しつつ通学したものだ。

 しかし、教室は押し合いへし合いでも、一歩外に出れば町の空気は明るかった。高度経済成長(60年~73年)の始まる直前であり、日本社会は神武景気に湧いていたからだ。

 私は小学校の行き帰りに、テレビの『月光仮面』の主題歌や、平尾昌章(後に昌晃)の『星は何でも知っている』をよく歌った。

 途中に公園があり、そこに時折紙芝居屋が来て『黄金バット』など見せながら飴を売っていた。小遣いゼロの私は客の輪に入れないのだが、全然悔しいとは思わなかった。

 59年には我が家もテレビを買ったのだ。

 飴を買って昔の絵物語を見るなど、子ども心にも古臭い娯楽に思えた。

 考えてみれば、子ども文化の様相はその前後の2、3年の間にすっかり変わってしまった。

 故郷の鳥取県にいた頃は、ラジオにかじりついて『紅孔雀』や『少年探偵団』を聞き、月刊〈少年画報〉で『赤胴鈴之助』を読んで楽しんだ。

 ところがテレビが茶の間に居座るようになると、ラジオや少年雑誌に見向きもしなくなり、力道山のプロレス中継や大瀬康一の『月光仮面』、『ウィリアムテル序曲』が鳴り響く『ローン・レンジャー』などに夢中になった。

 日々の遊びもいつの間にか様変わりした。

 田舎では男の子の遊びはメンコ、釘刺し、隠れんぼなどが主流だったが、首都圏では違った、S陣取りは別にして、軍人将棋、フラフープ、自転車遊びなど、あれこれお金がかかるものに変わった。

 私も子ども用の中古自転車を買ってもらい、周辺を乗り回して遊んだ。

 お気に入りの場所に三角山とジープ山があった。

 木がなく、ススキだけ生えた2つのハゲ山。高さはたぶん20メートルと10メートルほどか。

 私は「体をきたえるため」に、三角柱を横倒ししたような三角山にほぼ毎日登った。

 登り切ると右手が夏島で左手が金沢八景、その向こうが東京湾である。夏島は海水浴場で、八景側からは夏に花火が上がった。

 その手前、三角山の尾根を越した眼下にキリスト教会と教会の裏庭があった。台地の下なので距離は60メートル以上だろう。

 斜面のススキの葉陰から眺めると、裏庭でのパーティーや食事会の様子が見えた。

 着飾った老若男女、半分近くが外国人(おそらくアメリカ人)だった。テーブルで会話したり、三々五々寄り集まり談笑したり……。

 表情まではわからないが、私は、テレビの『パパは何でも知っている』や『うちのママは世界一』の世界を、まるで雲の上から覗き見している気がして、飽きなかった。

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