学生たちが西大久保の自宅まで訪ねると、着物姿で玄関先に現れた八雲は解約通知書をとりだして「君たちの行為は決して忘れない」とだけ述べて、彼らを見送った。留任運動の急先鋒でのちに劇作家となる小山内薫や歌人として知られる川田順は、憤慨して教室に出てこなくなった。
「日本的精神」の八雲と「西洋人」的な漱石
松江で妻のセツを娶って家庭を設け、必ずしも快適ではなかった熊本の五高を経てようやく帝大の教員となった八雲は1896(明治29)年、ラフカディオ・ハーンの名を改めて日本への帰化の手続きをとり、晴れて帝国日本の臣民となった。
ヴィクトリア時代の桂冠詩人、アルフレッド・テニスンらの作品を朗々と読んで解説してゆく八雲の授業は、英文科の学生たちの人気の的だった。彼らはその名調子に心を打たれたばかりでなく、ラフカディオ・ハーンの名で海外にも文名が知られるようになった日本贔屓の「お雇い外国人」が醸す〈空気〉に深く同調したのである。
それゆえに、教壇から八雲が去ってその後任の夏目金之助という「洋行帰り」が継いだ授業は甚だしく学生の失望を広げた。いかに英国留学帰りとはいえ、文学的な実績は乏しい地方の高校教師あがりの新米教員である。
髭を蓄えた気障なフロックコート姿で、テクストの講読では学生に発音や文法の誤りを事細かにあげつらう。そのうえ講義は理詰めで一向に楽しむところがない。金子健二は5月12日の日記にこう記した。
〈午後五時三十分から大学構内の御殿に英文会の主催で新任講師ロイド、夏目、上田の三先生の歓迎会があった。ロイド先生は例の如く愛嬌たっぷりの口調で挨拶があったので皆笑いこけた。上田敏先生は学生向きの話をされたので面白く聴いた。夏目先生は一言も話されなかった。夏目先生のあの批評的なそして又叡智的な目とあのカイザー型の気取ったお鬚とはなんとなく私たち書生にとりて、接しがたいような畏しいような印象を与えたのである〉(『人間漱石』)
漱石とて、八雲の後任として帝大講師の身分を得た居心地の悪さは自覚していた。
もちろん八雲の文名は知っていたし、留学前の前任の熊本の五高では入れ違いで教鞭をとったという因縁もある。後年、妻の鏡子が『思ひ出の記』の中にそのころの漱石の心の揺らぎを伝える言葉を記している。
〈小泉先生は英文学の泰斗でもあり、また文豪として世界に響いたえらい方であるのに、自分のような駆け出しの書生上がりのものが、その後釜に据わったところで到底立派な講義ができるものではない。また学生が満足してくれる道理もない〉
ここには日本贔屓の外国人教員である八雲が「日本的精神」の象徴として学生たちに支持され、洋行帰りの英文学者である日本人の夏目金之助、すなわち漱石が「西洋人」的な存在として学生たちから忌避されるという、逆転した心理が教室に広がっていたというべきであろう。
折しもこの年は、翌年の日露開戦へ向けて国内で主戦論が高まり、祖国と「日本人」をたたえるナショナリズムが国民の間で熱を帯びつつあった。
横浜の土を踏み感じた日本風土の美しさと〈霊的な巧緻〉の表徴
漱石に帝大を追われた晩年の八雲にとっても、解雇は東洋のアルカディア(理想郷)と仰いで抱いてきたあこがれの「日本」へひそかな幻滅をもたらしたはずである。
1890(明治23)年4月、ラフカディオ・ハーンとして初めて横浜の土を踏んだとき、人力車を雇って真っ先に出向いたのはホテルにちかい古寺であり、さらに足を延ばして鎌倉の円覚寺や建長寺が醸し出す霊気に触れた。そして高徳院の大仏の優雅な微笑の前に額づく日本人たちの表情に〈妖精の国〉を見出して、ハーンは感動を隠していない。
湘南の穏やかな海に浮かぶ江の島のはるか彼方には、雪を頂いた壮麗な富士山の姿がある。「のれんのはためき、人の住む通り全部、町全体、その町を取り巻く入り江と山々、一点の雲もない空にかかって、その町を見下ろす真っ白な富士山」を、「不思議な魅力を持つ樹木、光みなぎる大気、数々の都市や町や神社や寺院、加えて全世界でもっとも愛すべき四千万の国民」を、ひっくるめて自分に欲しいとハーンはそこに記した。
〈ここには北斎画中の人物が歩いている。みのを着て、大きなきのこのような笠をかぶり、わらじをはいて― 農夫たちの露わな四肢は、風と日にさらされて赤くやけている。にっこり笑っている坊主頭の赤ん坊をおぶって、辛抱強そうな顔をした母親たちが小股に下駄ばきの歩を運ぶ〉(「東洋の土を踏んだ日」)
ギリシャのレフカダに生まれ、肉親の縁を絶たれてアイルランド、英国、フランスを転々としたあげく、米国ニューオルリンズで新聞記者となった。弱肉強食の競争社会である西洋文明のくびきを逃れて、ようやくたどりついた日本の風土の優しさとそこに息づく〈霊的な巧緻〉の表徴を、ハーンはその第一歩に認めるのである。
