ハーンはこの最初の日本の印象記で、北斎や広重の浮世絵などにあらわれた日本人の暮らしと芸術表現に言及している。
〈飛ぶ鳥や山の霞や朝な夕なの風物の色合いや木々の枝ぶりや春や遅しと咲き出した花々を描くとき、その指を導くのは、今は亡き名匠たちだ。代々の練達の工匠たちが、一人の芸術家にその妙味を授け、彼の傑作のなかによみがえるのだ……それだから、もともとはたかが何銭という安値で売られた、北斎や広重の版画一枚でも、その方が日本のどこかの街ひとつを買い取る以上の値打ちがあるとされる、数多くの西洋画よりも、真の芸術的価値は高いかもしれないのである〉
ハーンは横浜と鎌倉、湘南へのこの「第一歩」をしるしたあと、中学教員として松江へ赴任して妻となるセツと所帯を構え、1年後には熊本の五高に転じた。「怪談」など庶民に伝承されてきた物語を「再話」という形式であらわす一方、「日本の面影」などのエッセイや小説で、この国の自然や民俗の深層に分け入って著述を重ねていった。
奇縁というべきであろう。
ハーンが3年ほど住んだ熊本を去って神戸で英字新聞の記者を務めたのち、上京して帝大講師の職に就いた後に、やはり熊本の五高教授から英国留学をはさんで追いかけるように帝大講師の後釜におさまるのが夏目金之助、すなわち漱石である。
舶来の外国人の目と耳と音や造形を通して〈日本〉という風土と日本人を深層から描いたのがハーンであったとすれば、漱石はロンドンでの2年間の孤独な留学生活で見つめた〈西洋〉と祖国としての〈日本〉のあいだで揺れ動き、苦節した時間がその後のあまたの名だたる文芸作品に結実していった。二人の作家は同時代のこの列島で、東と西という〈文明の衝突〉を生身で演じたわけである。
西洋美術を通して漱石に与えた「魔性の女」という主題
漱石は留学時代、ロンドンでナショナル・ギャラリーやケンジントン・ギャラリーなどへ足しげく通っており、美術雑誌の『ステューディオ』を定期購読するなど、美術作品への関心と造詣は単なる趣味の域を超えていた。
後年の主だった作品では、ターナーやコンスタブルといった風景画家の作品やロセッティやミレイら「ラファエル前派」に属する世紀末芸術がしばしば登場し、単なる作品の背景にとどまらずに主題と深くかかわった題材として描かれている。
〈有の儘なる浮世を見ず、鏡に写る浮世のみを見るシャロットの女は高き台の中に只一人住む。活ける世を鏡の裡にのみ知る者に、面を合わす友のあるべき由なし〉(『薤露行』)
英国留学から帰った漱石の短編『薤露行』は、アーサー王伝説をもとに「ラファエル前派」のジョン=ウィリアム・ウォーターハウスが詩人テニスンの作品をもとに描いた「シャロットの女」を題材にしている。高い塔に幽閉されたシャロットは鏡の中に円卓の騎士ランスロットの凛々しい姿を見て心を揺さぶられ、禁を破って鏡を割る。初めて現実に触れたことで呪われて死ぬシャロットは、19世紀末から20世紀初めの西欧社会の文芸や美術作品にしばしば登場して大きな主題となるファム・ファタル、いわゆる「魔性の女」の典型である。
「洋行帰り」の漱石が帝大講師をやめて作家として独立してから次々と書き上げて発表する代表的な小説作品の中で、人々の運命を揺さぶるこの〈ファム・ファタル〉の主題は繰り返し姿を変えて登場する。
最初の勤務地の四国松山を舞台にして時代風俗を痛快に描いた1906(明治39)年の『坊ちゃん』では、ターナーの絵とともにその名も〈マドンナ〉と呼ばれる若い女が旧制中学とそのコミュニティーに波風を立ててゆく。
『三四郎』(1907)年では熊本から上京して帝大に入学した主人公の三四郎の前に、美禰子という美しい令嬢が現れて友人たちとの輪に加わったのちに、「ストレイ・シープ、迷える子」という謎めいた言葉を残して去ってゆく。ここでも〈ファム・ファタル〉の典型と呼ぶべき登場人物が作品のなかに脈打っているのである。
異邦人として霊的な美しい〈妖精〉をこの国に見出して日本人に帰化した八雲に対し、英国留学を「尤も不愉快な二年間」と振り返ったにもかかわらず、帰国後の漱石はもっぱら西欧の世紀末美術の〈ファム・ファタル〉に作品の重要なモチーフを求めた。
