2024年12月5日(木)

対談

2015年2月19日

飯田:それにはやはり2世代くらいはかかりそうですね。

増田:ええ。それくらいの覚悟がいるということです。プロセスの全体像を意識しながら、現在時点がどこなのかを見定めることが必要で、局面だけの説得をしても無理です。長いプロセスの全体像をしっかりと提示することが大事だと思います。行政の都合ばかりを押し付けてもいけない。「道路の維持管理が財政上不可能なので、ここから先は管理しません」といった話ばかりではダメで、まちづくりである以上は夢や希望も語らないといけないと思います。

飯田:経済学者はついつい「金がない」から「道路を維持できない」と結論つけがちなのですが、それは部分的には正論ではあるけれども、まったく楽しい話じゃないですね(笑)。

増田:住民の方から見れば「あんたたちが作ったのにどういうことだ!」という話ですからね。

 地域の住民にとっての夢は何か、それは地域ごとの味の付け方だと思います。松本のような音楽祭や、演劇祭が開かれるとか、欧米に見られるようなスポーツを柱にしたものでもいい。東京のように一年中は無理でも、季節を決めてそういった施策を打っていかないと、30万人を惹きつけ続けることは不可能でしょう。

飯田:そういったものを維持するためにも中核市の維持と、中核市の中でのコンパクトシティ化が必要で、それが全国的な動きとして広がっていくことが必要ですね。百年以上かかって起こった人口移動を逆転させるわけですから、百年計画になるのは避けられない気がします。

増田:そうでしょうね。今の政治にもっとも欠けているのが長期的視野なので百年の計は難しいのですが(笑)、覚悟があろうがなかろうが人口減少は続きます。やらざるをえない。

飯田:最近、1900年の人口を調べたのですが、約4000万人だったのですね。

増田:明治期が3000万人台で推移していましたから、それくらいですよね。明治は新潟県のほうが東京府よりも人口が多い時期が長かった。

飯田:米の生産量が多ければ人も多い、と。

増田:ええ、しかも北前船により全国からモノとヒトが集積していました。幕藩体制の末期も越後藩が人口最大なんですよ。江戸はその次でした。

飯田:そこから100年かけて東京への集中が進んだわけですから、同じくらいの時間が必要でしょうね。コンパクトシティだけではなく日本の都市計画には、強制移住のイメージが色濃くあるのも問題ですね。

増田:日本ではどうしてもそのイメージがつきまといます。1世代で大きく動かすことは無理なので、2~3世代のスパンで住みやすくしていく合意形成が必要です。

飯田:意識もだいぶ変わるのでしょうね。いま60前後で東京に在住している方は、それまでの世代とは移住についての意識がかなり異なります。住みやすい場所、便利な街にどんどん移住したいと思っている人も少なくない。 30年後には地方在住の高齢者――まさに僕の世代ですが――の意識もだいぶ変わるでしょうし、その子どもはさらに変わるでしょう。世代を超えてゆっくりと、住みやすく都市が再編成されていくのでしょうね。

増田寛也(ますだ・ひろや)
1951年東京都生まれ。77年に東京大学法学部卒業し、建設省入省。95年から2007年まで岩手県知事、07年から08年まで総務大臣を務める。2009年より、野村総合研究所顧問、東京大学公共政策大学院客員教授。2011年より日本創成会議座長。

飯田泰之(いいだ・やすゆき)
1975年東京都生まれ。エコノミスト、明治大学准教授、シノドスマネージング・ディレクター、財務省財務総合政策研究所上席客員研究員。東京大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。著書に『経済は損得で理解しろ!』(エンターブレイン)、『ゼミナール 経済政策入門』(共著、日本経済新聞社)、『歴史が教えるマネーの理論』(ダイヤモンド社)、『ダメな議論』(ちくま新書)、『ゼロから学ぶ経済政策』(角川Oneテーマ21)、『脱貧困の経済学』(共著、ちくま文庫)など多数。

  
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