鹿屋市の中心部を抜けると、チェーンの飲食店、消費者金融、パチンコ屋が立ち並ぶ幹線道路に出た。そのデジャブな風景に「どこも同じかぁ」と悲しさを覚える一方で、「どこでも同じ」ことに慣れきって、それに安心し、むしろそうではないと不便に感じてしまう……。そんな規格的な街に飼いならされている自分にも同時に気付かされる。
それを抜けると、平野が開けてきて見渡す限りの濃い緑が目に飛び込んできた。サツマイモ畑のほか、トウモロコシ畑も目立った。畜産業が盛んなこの地域で、トウモロコシは、豚や牛の餌になるという。緑のなかを真っ直ぐな道が見えなくなるまで続いている。「平野が広いですねぇ」と感嘆を込めて運転手さんに言うと「車がないと不便で、生活もままならないですよ。私が乗せるお客さんは、病院通い、買い物のお年寄りが多いです」と、この地域に住む人たちの現実を知らされる。
道ばたに一升瓶のオブジェがいくつも見えてきた。ラベルにはやねだんと書いてある。東京・中野のアパートを出てから7時間経っていた。公民館に到着すると、駐車場で待っていた豊重さんが、笑顔で迎えてくださった。公民館の入り口には、お年寄りを中心とした地域の人たちの写真が飾られているのが目に入る。それぞれの表情ばかりではなく、色合い、構図もいい。プロっぽい写真だと思いながら「いい写真ですね」と、豊重さんに言うと、「迎賓館に来た写真家の河野精一さんが撮ってくれたんですよ」と教えてくれた。
そのまま座敷に進むと、壁一面に広がる巨大画が飛び込んでくる。これも、後述するが迎賓館と豊重さんが名付けた、空き屋に芸術家を誘致する取り組みで、第一号となった画家、石原啓行さんと、大窪顕子さんの共同作品だ。「このなかに集落の子どもたちの名前が入っているんですよ」と、豊重さん。「ええっ」と思って近づいてみると、花のなかに漢字が隠れていた。
感動が人を動かす
やねだんの取り組みを報道した地元テレビ局のVTRを見せていただいたあと、豊重さんのお話を聞いた。取り組みがはじまったのは、今から13年前。柳谷自治公民館の館長(自治会の代表)に豊重さんが指名されたときからだ。このとき55歳。元銀行マンで、うなぎ養殖業の経営者でもあった豊重さんは、高齢化が進み、小さな集落なのに交流も少ないという現実を目の前にして「地域への恩返しのためにも、地域に活力を呼び起こしたい」と、館長就任を引き受けた。豊重さんは、当時を振り返って、「集落の“結”が無くなっていた。活動らしい活動は盆踊りくらいで、何かやるとしても行政からのトップダウンで、言われるがままやっているだけ」だったという。
豊重さんには、館長を引き受けるにあたってひとつのポリシー(政策)があった。「補助金に頼らない地域おこしを住民総参加で実践する」ことだ。地域にある公園、アスレチック施設など、作った後は草ぼうぼうという状況はあまりにも情けないと豊重さんは思っていた。