お梅さんの提案で誕生した
店は人気を呼び、あちこちから鰻の出前を頼まれた。それが、ひつまぶし誕生に繋がったというのだ。
「名古屋では、器はお重(じゅう)ではなく丼を使います。瀬戸物を使うわけです、地元ですから。そのため重いし、帰りに空(から)の丼を割ってしまうことが多かったそうです。そこで2代目の甚三郎は、女中頭のお梅と考えた末に、木のお櫃、5人前くらい入る大きなお櫃に人数分の鰻丼を入れて運ぶようにしたんです。
出前は楽になりましたし、お客様も快く受け容れて下さいました。でもひとつ問題が。皆さん、上にのっている鰻は全部召し上がるんですが、下のご飯を残してしまうんです。これではよくない。そこでお梅が、鰻を細かく刻んで、ご飯にまぶすようにしてはどうでしょうと提案しました」
すると、ご飯も残ることがなくなったうえ、鰻が細かく刻んであるので、子供や老人にも食べやすいと評判になった。
やがてひつまぶしは、出前だけではなく、店内での会席料理にも出るようになった。
「お酒をたくさん召し上がってあまりお腹が空いていない方は1杯だけ、たくさん食べたい方は3杯でも4杯でも、というように、お櫃から好きなだけよそって食べられるので、人気が出たそうです。そのうち、茶漬けにして食べたいという要望も出ました。ただし、実際にやってみましたところ、鰻の生臭さが感じられるんです。そこで鰻に合う出汁(だし)を考案しまして、葱(ねぎ)、山葵(わさび)、海苔の薬味と一緒に食べるような工夫もしました」
ひつまぶしという新商品の人気は急上昇したが、そこは明治時代。今と違ってブログもなければツイッターもない。しかも料亭という形態ゆえに、利用客も限られている。一度食べて気に入った客の口の端に上るものの、たちまち全国区の知名度を得るというほどではなかった。
そんな同店とひつまぶしにとって大きな変化が生じたのは、太平洋戦争が終わって間もない頃。