簡単ではない徴兵制の廃止
このように、プーチン大統領の徴兵制廃止発言はイベント参加者とのやり取りの中から出てきたものであって、公式の場で高らかに宣言したというわけではない。あくまでも現在の流れを続けて行けばそのうちに、という程度のニュアンスであったと言える。
ただ、ロシア政府が徴兵から契約軍人主体への転換を図っていること自体は事実だ。すでに見たように、現在のロシア軍では契約軍人が徴兵を上回っているが、ほんの数年前までは契約軍人の数は徴兵よりはるかに少なかった。90年代まで遡ればロシア軍には契約軍人という制度自体がなく、将校のほかは兵士も下士官も徴兵で賄っていたのである。
それが38万4000人というところまで増加してきたのは、ロシア国防省による契約軍人への待遇改善(給与、宿舎、食事等)に加えて、愛国心の高まりや経済の低迷による失業問題など様々な要素が重なり合った結果と考えられよう。契約軍人は最低3年勤務するため、軍としてもただの徴兵よりは様々な技能職を任せやすいらしく、潜水艦部隊や核ミサイル部隊ではすでに全ての兵士及び下士官が契約軍人化されている。しかもロシア国防省は徴兵を戦地に送らないという方針を取っているため、ウクライナとシリアで二正面作戦を戦うロシアにとって、契約軍人は貴重な戦力だ。
だが、ロシア軍が今後も現在の規模を維持すると仮定した場合、完全な契約軍人制への移行はそう簡単ではない。徴兵は無給だが、契約軍人には給料を払わねばならないためである。
現在、ロシア国防省は予算の3分の1以上を人件費に充てているが、契約軍人の数が70万にもなればその負担はさらに増える。厳しい財政状況のあおりを受けて「聖域」であった国防予算がついに大幅削減されたことを考えれば、人件費の膨張は軍にとって余計に厳しい事態である。
徴兵制の価値
これに加えて、徴兵制というものを現在の軍事的環境の中でどう位置づけるのかという問題もある。冷戦終結後には、もはや大規模戦争の可能性におびえる時代は終わったのだから、大量動員型の軍隊を支える徴兵制は不要になったとの議論が見られるようになった。実際、欧州の多くの国々が徴兵制の廃止に踏み切り、旧ソ連でもウクライナが2013年に徴兵制を廃止した。
ところが、まさにその翌年にあたる2014年、ロシアがウクライナへの軍事介入を開始したことで状況は大きく変わった。かつて「現代戦」として想定されていたのは、高度な技能を持つ兵士がハイテク兵器を使いこなす戦争だったが、実際にウクライナのドンバス地方で繰り広げられたのは、長期にわたって続く低強度の紛争であった。こうした紛争においては、高度な装備を持つ正規軍は敵に対する軍事的圧迫や側面支援に回り、戦闘自体は軍や治安機関の兵士、民兵、マフィア集団などが担う。
こうなると、必要なのはまずもって人間の頭数だ。このため、ウクライナ政府は廃止したばかりの徴兵制を復活させるとともに、一般市民に対する戦時動員を独立後初めて実施した。ただし、徴兵は戦地には送られず、前線での戦闘は将校と志願兵、そして戦時動員で動員された徴兵経験者たちが担う。
ロシアへの警戒感が強いリトアニアやスウェーデンでも、冷戦後に廃止された徴兵制が相次いで復活している。徴兵自体は短期間の訓練を受けるだけで即戦力とはなりにくいものの、基礎的な軍事訓練を受けた国民が広く社会に存在していれば有事の予備兵力となるためである。実際、ウクライナが行った戦時動員でも、徴兵経験者が優先的に対象とされている。
ロシア国防も今年9月、徴兵について規定した軍事勤務法と軍人地位法の改正案を提出した。戦時には徴兵者数や徴兵期間を「実際の要請に基づいて」参謀本部が自由に決定できるほか、徴兵者数を非公表とできるというものである。徴兵制の価値はロシアでも依然として失われていない。