だが、福島では原発への不安が今も燻り続けている。当初は県外移住を促し、愛知で雇用を受け入れることも考えた。しかし、4月16日から4日間、いわき市を視察に訪れた際、「福島を離れたくない。ここで働きたい」という現地の多くの人の声を聞いた。「それほど強い想いがあるのなら、福島の人はきっとすごいことをやってくれるだろう」。ビジネスとしては先が読めないままだったが、その想いに賭けてみることにした。
平坦ではなかった開業までの道のり
「求人票を出そうと、いわき市の職業安定所を訪れたら、尋常じゃない数の求職者で溢れかえっていたんです。申し込みが殺到したら、とても対処しきれません」。石田社長は、「求人において絶対に失礼なことがあってはならない」と考えている。しかも、「被災地での求人はなおさらのこと」。求人は対処できる範囲で地道に行うことにした。現地にお金を落とすという意味で、地元の求人誌に二週にわたる広告掲載を依頼。だが、二週目の発行を待たずに求人誌は廃刊してしまった。それでも10件の申し込みがあり、5月9日には現地で6名と面接、その後もひとりずつ丁寧に面接を重ね、2名を正社員として採用した。
事務所の確保も難航した。被災地から近くて、津波が来なくて、安くて、人が集まるところ。これらの条件で不動産屋を巡ったが、復興需要を見越した建築やインフラ関係の大手企業が、市内の目ぼしい物件をほとんど押さえてしまっている。これでは開業できないと悩んでいたところに、地元の建設会社の社長から、自社の空き物件を割安で貸してくれるとの申し出があった。
そして、次に頭を悩ませたのが技術指導の問題。採用した人を愛知に招き研修を受けさせたいが、一時的にとはいえ、家族と離れさせることになる。それはなんとしても避けたかった。逆に、愛知から技術指導のできる人材を派遣することも考えたが、放射線リスクがゼロではない福島の現状を考えるとそれも難しい。
そんなジレンマを抱えている時に、友人の紹介で同じ愛知県出身の杉浦恵一氏(25)と知り合う。震災直後から福島県に乗り込み、精力的にボランティア活動を続けてきた杉浦氏に、石田社長は白羽の矢を立てた。愛知県の犬山工場に招き、初歩的な技術を2日間でマスターしてもらうと、いわき支店の臨時工場長として雇い入れた。
薄く広く雇用を生む
こうしてなんとか開業に漕ぎ着けたものの、本格稼動にはまだ時間を要する。6月2日の開業式の後、正規採用された柳内さんと木下さんに、社長自らの技術指導が始まった。二人とも製造業に従事した経験はなく、工具の扱い方や部品の名称など、基礎から丁寧に教えていく必要がある。石田社長は、「そもそも制御盤とは何か」から説明を始めた。
「紙コップから自動車、原発の部品に至るまで、あらゆるライン製造の機械装置において、制御盤は要の役割を果たしている。しかし、そこに使用される多くの電線は、今も手作業で作られている」。そして、「たった数ミリの違いが大きな品質の差を生み、その数ミリにこだわる日本品質が、世界で高い評価を受けている」。二人とも、真剣な表情で耳を傾けていた。
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