2024年12月7日(土)

日本のなかの外国を歩く

2011年10月27日

後継者がいない

 「一世にあたる私たちの祖父や曽祖父たちの苦労は大変なものでした。一生懸命に働いて貯めたお金でやっとの思いで自分たちの料理屋を開き、子供たちを育てたのです」

 横浜中華街の華僑三世である鮑国明氏こう話す。84歳になるが、70歳代はじめに見える程かくしゃくとしている。鮑国明氏の祖父は横浜が開港したばかりの頃に広東から来日した「買弁」であった。

 買弁とは、開国した日本で、欧米商人が交易などを行う際、生糸や茶取引などの知識を生かして、欧米商人のために日本商人と仲介する清国人のことである。また彼らは、筆談などをとおして日本商人と欧米商人との通訳をすることができたので、欧米商人たちは彼らを重宝がった。日本に関する情報提供をはじめ、取引の折衝、輸出入する荷物のチェック、通関手続き、帳簿付け、港湾労働者の手配など、商売に関する全般を雇用主である欧米商人から任されていた。専用の金銀鑑定士、会計係、集金係、倉庫係、料理人などを雇うことも認められ、こういった人たちが買弁に随って横浜の外国人居留地にやって来た。横浜中華街の基礎は彼らによって築かれたのである。

 鮑国明氏のように買弁を先祖に持つ人々をはじめ、1980年以前に日本に定住した中国人のことを“老華僑”と呼んでおり、それらの人々がこれまでの中華街の中心であった。「一世たちは、自分たちのような苦労はさせたくないと、子供たちに良い教育を施そうとしたのです。中華街には華僑向けの中華学校が2つありますが、商売に成功した者の中には、国際感覚を身に付けさせようと横浜の山手にあったセント・ジョセフなどのインターナショナル・スクールに通わせている人が結構いました」と鮑国明氏は、一世たちの時代のことを振り返る。

 その一方で、この中華街で起きている変化に話が及ぶと鮑氏は眉をひそめる。「夏には灼熱地獄となる中華料理屋の厨房で、重い鉄製の中華鍋を一日中振る仕事を、今の若い人たちはやりたがりません。中華料理屋を継ぐ後継者がいなくなれば、その店は閉店せざるを得ませんから、世代交代とともに中華街で相次いで老舗が閉まるわけです。日本国籍を取得する華僑が増えたために職業選択の幅も広がったことも、若い人たちが中華街を離れる原因です」。

華僑の歴史資料館を横浜に

 老華僑が中華街を離れていった結果、その間隙を突くように中国の開放改革路線によってやって来た“新華僑”が台頭してきている実態は、以前にも記事にした。そうしたなか、「華僑の歴史を残すために資料館を開設すべきだ」と訴えているのが、「横濱華僑總會」の前会長である李瑞昇氏だ。今年は辛亥革命から百周年にあたる。李氏は積極的に辛亥革命に関係する資料を収集していた。

 「孫文のスポンサーになった中国の企業家たちは、マッチの製造で財をなした人が多かったのを知っていますか」と言って李氏は、辛亥革命の前後に販売されたマッチ箱のコレクションを見せてくれた。マッチ箱の表紙には、孫文の肖像画や革命軍の軍旗など、辛亥革命に関するメッセージが込められたものも多い。マッチ箱に印刷されたレトロな美しいデザインに見とれていると、李瑞昇氏はこんな話をしてくれた。「この中華街には孫文先生が亡命していたこともありましたし、革命の支援者であった華僑も大勢いたのですが、残念なことにそのような歴史を知っているのは、いまの華僑のなかにはほとんどいません」

 いまや廉価な食べ放題の店と占いの店ばかり並ぶ横浜中華街。関帝廟や媽祖廟などの中国伝統の宗教施設はあるが、李氏は華僑の歴史を伝える資料館や博物館は存在しないことを嘆く。それに対して、横浜と並んで古くからの中華街を持つ神戸には、孫文記念館や神戸華僑歴史博物館などの資料館があることを指摘する。

 「中華街に華僑の歴史を伝える資料館がないということは、日本人はもちろんのこと、華僑自身も自分たちの歴史を学ぶ場がないということになります」と言う彼は、華僑としての誇りを持ち続けなくてはならないと力説している。


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