使えない上司・使えない部下

2020年1月18日

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代表取締役社長の吉田秀樹さん

 今回は、産業用機密機機器メーカーのスリーエス(東京都北区、70人)代表取締役社長の吉田秀樹さん(46歳)にお話を伺った。創業34年で、製造プラントで使われる精密機器「バルブポジショナ」の国内唯一の専業メーカー。ポジショナはバルブの動きを制御することで、配管中の液体や気体などの流体を精密に調整する機器。

 吉田社長は麻布中学、高校を卒業し、1993年に東京大学文学部に入学。1997年に新卒で三和銀行に入行し、4年後の27歳に大手外資生命保険会社に転職。2006年にスリーエスに転職し、12年に社長に就任した。吉田さんにとって「使えない上司・部下」とは……。

鬼のように見えたが、裏では部下のために動いてくれていた

 麻布では中学、高校の6年間、学びました。同期生(1992年卒)は300人で、医師は70人程、弁護士・裁判官は約10人、キャリア組(国家公務員1種)は10人程、大企業勤務が約100人。東大(地震研究所)の青木陽介准教授や育児・教育ジャーナリストのおおたとしまささん、医師(さくら総合病院院長)の小林豊さんなどがいます。1992年卒の有志で、非公式(学校公認ではない)のOB交流会「麻布流儀」(https://azabu.style/)を立ち上げました。卒業生同志で交流を深め、社会への貢献につながればうれしく思っています。

 東大の文学部を1997年に卒業し、同年に三和銀行(現三菱UFJ銀行)に入行しました。社風は「体育会系」で、仕事や上下関係は厳しかったです。三菱、住友、三井、安田など旧財閥の大手銀行と競うためには、あのくらいに猛烈でないと生き残れなかったのかもしれませんね。

 まず、地方支店に3年間勤務した後、都内の支店へ異動となりました。当時は金融不況と言われていた頃で、三和でも様ざまなコスト削減が行われていました。その1つに、「ワンマン体制」があります。2000年頃から、支店では1人の行員が1社の「営業などの外回り」「融資」「外国為替」の3つを担当にするようになったのです。

 それ以前は、それぞれに1人の行員がいて、3人でチームを組み、1社の対応をしていました。「ワンマン体制」にしたのは、「個々の行員のマルチの能力を高める」とされていましたが、実際は人件費の削減が目的でしょう。

 当時、40∼50代の行員のリストラはなかなか難しく、おそらく、新卒採用者数を削減することで、総額人件費を圧縮せざるを得なかったのだろうと思います。20代前半の行員数が減り、そのしわ寄せが20~30代に押し寄せているような印象を持ちました。「ワンマン体制」のもと、業務量や勉強すべきことが膨大となり、深夜まで仕事の準備や勉強をして、睡眠が数時間となるような日も少なくありませんでした。

 優秀な上司や先輩、同僚らが多く、学ぶものはたくさんありました。強く印象に残っているのは、都内の支店勤務の時の30代半ばの営業課長です。取引先企業への多数の融資の稟議書を書いて、課長にお見せします。外回りをして支店に戻ってくると、真っ赤になった稟議書などが机上にあります。

 課長が赤ペンでダメ出しをしてくれたのですが、いくつかは融資実行日が近く、時間がありません。そこで「あまり時間がないのです」とお願いをしますが、課長は「あの内容では、調査が甘い」などと指摘をします。私は融資実行日が迫っているので、本部の決済をそろそろ得ないと、融資ができなくなります」とお伝えします。

 それでも、課長は私が稟議書を書き直さないと認めてくれません。ほぼ毎回、ダメ出しを受けて返されますから、その都度、案件を調べ直します。

 このような指導を徹底して受けたこともあり、仕事のスキルが向上したのかもしれません。半年後に、入行4年目で「優秀外交」に選ばれました。全営業マンの中で、成績がよい10%ぐらいが選抜されます。私が「使える部下」?自分にはわかりませんが、表彰を受けたことで、上司に少しでも恩返しができたかと思います。

 「使える上司」という点では、私が仕えた営業課長はまさにそのタイプだったように思います。その後、ずいぶんと出世されたと聞いています。先輩から聞いた話では、課長は事前に本部に連絡をして、案件の概要や融資の実行タイミングを伝えておくなどの根回しをしてくれていたようです。厳しいから、一時期は鬼のように見えましたが、裏では部下のために動いてくれていたのですね。この方のお蔭でずいぶんと鍛えられ、自信をつけることができました。

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