2024年11月22日(金)

ヒットメーカーの舞台裏

2012年5月15日

 中山らは、「そうした袋麺の閉塞感を打ち破るようなインスタントラーメンの完成形を」と、高い志をもって挑んだ。しかし、中山が最初の試食をした09年の夏ごろには、まだ商品化への道筋は霧の中だった。

「マルちゃんが考えるこれぞ正しい麺」

 まったく新しい製法なので、従来の設備との共通点は少なく、量産を可能とする専用製造ラインの構築から着手しなければならなかった。特許出願中のため、製造工程は明らかにしてもらえないが、生麺を円形のかたまりに成形し、食感を損なうことなく乾燥させるプロセスにノウハウが詰まっていると推察できる。

 量産化技術や味づくりなどのめどが立ち、役員会で商品化が承認されたのは10年12月になってからだった。翌11年が明けるとすぐに、これまで開発に取り組んできた各部門のメンバーによるプロジェクトが正式に発足、発売日に向けてラストスパートをかけていった。発売日まで残された時間はそう多くなく、各メンバーに重くのしかかった。だが、中山は「全社的にベクトルは一致しており、心をひとつにしてその日を目指していけた」と振り返る。

 商品名は約200もの候補から絞り込んだものの、「正麺」は当初から多くのメンバーが注目したネーミングだった。「“マルちゃんが考えるこれぞ正しい麺”ということで、われわれの自負を込めさせてもらった」。

 中山は剣道六段の腕前であり、小学生の時に出会ったこの武道が、実業団の名門剣道部を抱える東洋水産と自分を結んでくれた。今回の商品開発は、正眼の構えから打ち込んで行ったという感じだろう。正麺を発表した昨年は、同社初の即席麺である「マルト印ラーメン味付」を発売して50周年の節目でもあった。

 もっとも、中山は正麺がメガブランドになるためには消費者に「味を舌と身体で覚えていただかなければならない」と見る。メガ商品とは即ち、味が覚え込まれることで長期のリピート買いにつながっていくからだという。その意味では、正麺が「ロングセラーの定番商品に育つという自信はある」と結んだ。(敬称略)

■メイキング オブ ヒットメーカー 中山清志(なかやま・きよし)さん
東洋水産 即席麺本部 商品開発部 部長

中山清志さん  (写真:井上智幸)

1960年生まれ
埼玉県岩槻市(現・さいたま市岩槻区)に生まれる。父は雛人形作りの職人で、母や叔父もその仕事に従事していた。兄も人形制作を手伝っていたが、中山さんは手先が器用でなかったため、主に納品の仕事を手伝った。雛人形の首の部分を東京の浅草橋まで運び、父の注文で帰りにアメ横でバナナを大量に買って帰った記憶がある。
1970年(10歳)
小学校4年生から剣道を、5年生から英語を習い始める。授業中に落ち着くことができない生徒だったが、剣道を習い始めてから集中できるようになった。剣道の腕前を上げた結果、高校にスポーツ推薦で入学するまでになり、高校時代には団体でインターハイに出場した。
1979年(18歳)
スポーツ推薦で大学に入学。学生時代は剣道部の合宿所で生活した。東洋水産のカップ麺である「赤いきつね」と「緑のたぬき」が発売されて間もない頃で、こよなく愛していた。その後、同社の剣道部が名門であることを知り、就職を希望するようになる。
1983年(22歳)
東洋水産に入社。最初の16年間は焼そばやシュウマイといったチルド関連の営業に従事。その後、10年間即席麺を含めたCOOPブランドの商品開発と営業に携わる。09年3月より現職。

◆WEDGE2012年5月号より

 

 

 

 

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