2024年4月26日(金)

故郷のメディアはいま

2012年8月16日

 またNHK福岡放送局では、地元の脚本家や音楽家、役者などを起用して博多織や博多鋏、博多人形を織り込んだドラマも企画・制作してきた。NHKだけではない。民放のテレビ・ラジオ局も県出身の芸能人を発掘し応援してきた。

 その象徴として前述のクイズを出題したのだが、さて正解は? 場所を基点に回答していこう。

チューリップを結びつけたメディア

 まず(1)と関わりあるのがチューリップとTNCだ。チューリップのデビュー曲を知っている人は、意外と少ないのではなかろうか。「魔法の黄色い靴」だが、その楽曲のデモテープを録音したライブハウスが、西日本鉄道天神駅近くにある。曲は、「非常に斬新だ」と評価されたが、さっぱり売れなかった。続く「一人の部屋」もダメだった。

 5人のメンバーを福岡から上京させ、家賃に生活費まで負担していた東芝音楽工業(現在の東芝EMI)はもちろん、財津和夫をリーダーとするメンバー5人も「次も売れないようなら福岡に帰るしかないか」と焦りの色を濃くしていた。3曲目「心の旅」は、財津が片思いの女性をベースに自らの心象風景を詩にしたものだった。だが、メーンボーカルを務めたのは財津ではなく姫野達也である。

 財津と姫野は、それぞれ異なるバンドに参加していた。二人を結びつけたのが、TNC主催の『レッツ・ゴー・フォーク』だ。TNCは、1968年から毎月、中洲に建つ明治安田生命ホールで『レッツ・ゴー』を開催していた。

 じつは、海援隊のメンバーで「贈る言葉」を作曲した千葉和臣は、姫野と同じバンドに参加していた。まさに「縁は奇なもの」である。

武田鉄矢を育んだ「嘉穂劇場」

 海援隊のリーダー、武田鉄矢を育んだのが「嘉穂劇場」だ。同劇場は昭和初期に解説され、”筑豊の歌舞伎座”と称された。その名の通り、片岡仁左衛門、尾上梅幸、萬屋錦之介などの歌舞伎役者の福岡公演は、同劇場で行われた。歌舞伎だけではなく、大衆演劇や歌謡ショーと幅広い催しを展開したのが、同劇場の二代目劇場主で、出演者から”川筋の肝っ玉おばしゃん”と慕われた伊藤英子(故人)だった。

 その伊藤の波乱に富んだ人生を取材し、『風雪60年嘉穂劇場物語』(91年3月放送)にまとめたのが、飯塚出身のFBSディレクターである。番組には前述の役者が出演し、数々の公園のハイライトシーンが織り込まれた。ナレーターを務めたのが武田鉄矢だ。

 1968年、福岡教育大学障害児教育教員養成課程に入学した武田はまもなく、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の影響から「海援隊」を結成。「海援隊がゆく」でデビューするが、当初はまったく売れず、73年、ようやく「母に捧げるバラード」がヒットし、翌年の紅白歌合戦に出場し“全国区”となった。その売れない時期、武田は「嘉穂劇場」の歌謡ショーに出演し、歌だけではなく、のちに有名となる「ハンガーヌンチャクによるアクションシーン」を披露していたという。同劇場の伊藤は、武田鉄矢にとって74年大学中退後も芸能界で失敗した時に備え、学費を払い続けていた母・イクと並ぶ大恩人なのである。


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