コロナ禍の中、異例づくめの球春が到来する。プロ野球は2月1日からキャンプインを迎えるが、新型コロナウイルスの感染拡大によって今も11都府県に緊急事態宣言が発令中。キャンプが行われる宮崎、沖縄の両県も自治体独自の緊急事態宣言を出している。これによりNPB(日本野球機構)とセ・パ12球団はキャンプを各自治他の要請に従って当面は無観客で行い、監督、コーチ、全選手を含むチームスタッフ、報道陣に定期的なPCR検査を徹底させることを決めた。
これまでとは大きく異なる厳戒態勢下の春季キャンプ。それでも何かと暗い話題ばかりの世の中だからこそホットな話題満載の球春到来を待ちわびている人たちはきっと多いはずだ。その12球団のキャンプインの中で、最も注目を集めそうなのはやはり投手コーチ補佐として15年ぶりに巨人復帰を果たした桑田真澄氏であろう。
桑田氏の巨人復帰は間違いなくビッグサプライズだった。新年早々、複数の朝刊スポーツ紙によってほぼ横並びの形で発表当日にニュースが掲載されたことから1社にスクープとして出し抜かれず、情報はあえて平等にリークされた模様だ。とにかく、それだけほとんどのメディアは寝耳に水であった。極秘裏に事を進めていた原辰徳監督によれば、年末に桑田氏の緊急入閣を立案し、昨年12月28日のトップ会談で山口寿一オーナーの了承を得てからスピーディーに話がまとまったという。年明けの5日にオファーを受けた桑田氏が二つ返事で快諾。年末年始を挟んでいるにもかかわらず、わずか9日で仰天人事が内定した。
正式発表となったのは1月12日。もちろん、すでに新しいシーズンのコーチ人事はとうに固まっていた。この時期に「補佐」の肩書とはいえ、新スタッフとして迎え入れられるのは異例中の異例だ。もちろん原監督はチーム内にハレーションを起こさないように、投手部門の責任者である宮本和知投手総合コーチにも事前にきちんと相談している。
それにしてもやはり驚かされたのは、かつて自身と溝が深まっていたはずの桑田氏を呼び戻す決断をした原監督の裁量である。桑田氏は2006年9月24日、ジャイアンツ球場での二軍戦で巨人の選手として最後のマウンドに立ち、21年間着続けたYGユニホームに別れを告げた。しかし前日の9月23日に自身のブログ「LIFE IS ART」で退団と二軍戦登板を示唆する内容の文章を掲載したことで、原監督の怒りを買ってしまう。指揮官に対して事前に話をしないまま先走ってブログに思いの丈をしたため、それを公表し〝フライング〟を犯してしまっていたのだ。
当時、原監督が不快感を覚えたのも無理はないだろう。ただ、この頃は桑田氏にも言い分はあった。時は原監督が3年ぶりに再び指揮を執ることになった第二次政権下の1年目。ちなみに桑田氏はかつて原監督の就任1年目となる2002年シーズンでは4年ぶりの2けた勝利と15年ぶりの最優秀防御率のタイトルを獲得するなどチーム日本一に大きく貢献し、復活を印象付けたこともあった。それだけに以降、堀内恒夫前監督から冷遇され、引退勧告まで受けるなど低迷続きだった桑田氏としては指揮官交代のタイミングで〝夢よ、もう一度〟との気持ちも芽生えていたようだ。
しかし開幕直後の2006年4月に600日ぶりの勝利を飾るも右足首を負傷し、その後は二軍へ降格。最後までファームで〝塩漬け〟にされ、どれだけ頑張っても一軍から声すらかけてもらえず桑田氏の心中は強い不満に日々さいなまれるようになっていた。どうせ何を話しても無駄だろう――そういう思いとプライドが絡み合い、ラスト登板と退団についてブログで先行発表する流れを当時の桑田氏は自身に対して作り上げてしまったようである。
だが、桑田氏は巨人を退団後、ピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約。悲願だったメジャーリーグのマウンドにも立ち、完全燃焼を果たすと引退後は野球解説者として原監督と現場で話す機会も徐々に増えていった。基本的に原監督も過去のイザコザは余程のことでもない限り、水に流して〝まあ、あの時はあの時でいいじゃないか〟と切り替えられる性格の持ち主だ。
それでもいくら距離感が縮まったとはいえ、球界内からは完全に和解へと至ったとは見ずに「単にお互いが〝大人の対応〟を見せていただけではないか」とうがった見解も多く向けられていた。こうした中、一枚岩とならねばならないチームの枠組みに少なからず過去にイザコザが実在した桑田氏をコーチとして呼び戻す〝奇天烈な発想〟は誰が見ても、さすがに予想外だったことは明白である。実際、球団内の多くの関係者も原監督の発案した桑田氏のサプライズ起用には「想像すらできなかった」と声を揃え、未だに目を白黒させているほどだ。