村田に言わせれば、一部の人のために存在するかのような東京の料亭は、“個室和風クラブ”ということになる。料亭の文化が全く違う東京に出店したのは2004年。赤坂の150坪がその拠点である。なぜ文化の違う東京にあえて出店を決意したのかという問いに、村田は即座にこう答えた。
「日本料理を世界に広げるということをライフワークにしているから。その一環としてこの赤坂店もあるんです。フランス行ったら、首都パリでフランス料理が食べられる。日本でも東京で日本料理が普通に食べられなあかん。世界の人にも本当の日本料理を味わってもらいたいんです。20歳の時からずっと持ち続けている私の夢なんですわ」
パリで目覚めた
20歳。村田はパリに行った。というより行くハメになった。
「絵に描いて熨斗(のし)をつけたようなボンでした。アホボンもええとこや」
祖父は、家を継ぐ長男には、お金が欲しいと言ったら与えるという方針だった。使うことから覚えないと、必要な時に使えないし、儲けることができない子になるという考えからだ。おかげで、ボンはスカイラインGT-Rで大学に通い、冬は1カ月スキー場、夏は1カ月海辺で過ごす。お金がなくなったら「送ってや」と言うとお金が届く。
跡継ぎとしての長男は、家でもあくまで特別な存在。食事も母や弟妹たちとは別に、幼い時から祖父と父と3人で食べた。3つ4つの頃から最高の味に慣れ親しみ、祖父と父が味や経営を巡って言い合うのを聞きながら育ったわけだ。祖父は料理屋を起こしたようにやり手の実業家気質なのに対して、料理人の父は朝早くから夜中まで厨房でひたすら仕事に取り組む真面目な職人肌。親子なのに、天と地ほども気性が違う。
「祖父さんは親父に『お前のやってることは仕事やない』と言う。親父は朝から晩まで働いているから反発しますわな。祖父さんは『お前は気休めみたいに厨房にへばりついてるだけや』言わはる。孫の私には『親父のようにずっと下向いて仕事してたらあかんで。厨房にはお客さんはいいひんやろ。外向いて前向いてなあかん。下ばっかり見てたら“お金儲けはん”が来はってもわからへんのや』って言う」
経営と味覚の両方を、耳と舌から浸透させ、将来は料理屋を継ぐのだろうと漠然と理解していたものの、ボンにとって日本料理は日常の食事そのもので珍しいものでも感動するものでもない。むしろ、たまに行く『萬養軒』のフランス料理が新鮮で心がときめいた。