今日の世相を見るに、年間3万を越す自殺者がいるという悲しいニュースがあります。また、鬱で出社拒否したり、人生を「つまらないものだ」と感じていたり、無為に生きている人々も多いようです。
しかし著者は、そのような人々のことを、ある意味では生きることを諦めたエゴイストでもあると喝破します。もっと、積極的に希望や生き甲斐を見出すべきであると。
『葉隠』が説くのは、与えられた人生を背負う覚悟を持ち、生きるなかでの組織に誠実に接することの大切さです。そして現代でもそのような心構えこそが、希望の種になるのです。
終わりがあるからこそ、懸命に生きる
『葉隠』といえば、「死ぬこと」と考える人は多い。それは、第二次大戦中若者を死地にかりたてるために利用された記憶があるからであろう。また、三島由紀夫は『葉隠入門』を書いているため、その切腹から、それを連想する人も多かろう。しかし、よく読んでみれば、「死の哲学」である以上に、「生の哲学」であることがわかる。最初の「武士道といふは、死ぬ事と見附けたり」は、『葉隠』を貫く大きな幹である。あとは、ここからいろいろな枝葉が出てくるにすぎない。また、『葉隠』といえば、この一句を思い出す人が多い。それほど象徴的なものでありながら、多くの人に誤解されている。まずはこの項を読んでから再検討することにしよう。
武士道といふは、死ぬ事と見附けたり。二つ々々の場にて、早く死ぬ方に片附くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。図(づ)に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打上(うちあが)りたる武道なるべし。二つ々々の場にて、図に当たるやうにするは及ばぬ事なり。我人(われひと)、生くる方が好きなり。多分好きの方に理が附くべし。
若(も)し図にはづれて生きたならば腰抜けなり。若し図に外れて生きたらば、腰抜けなり。この境危うきなり。図に外れて死にらば、犬死気違なり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。
毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕果すべきなり。