2024年11月22日(金)

いま、なぜ武士道なのか

2009年8月17日

(現代語訳)
武士道の本質は、死ぬことであると悟った。生か死か、いずれをとるかといえば、まず死をとるということである。別に理屈はない。覚悟をすえて、ただ突き進むだけである。『目的を果たさず死ぬのは犬死にだ』などというのは、上方(かみがた)風の軽薄な武士道である。生か死か二つに一つの場合、絶対に正しいという判断をくだすことは難しい。人はだれでも、死ぬよりは生きる方を選ぶにきまっている。それに都合のよい理屈を考え出すものである。
目的を果たさず、なお生きながらえるなら、腰ぬけだと謗(そし)られても仕方あるまい。実は、ここが大事なところである。目的を果たさず死ねばたしかに犬死にである。しかし、少しも恥ではない。これが武士道の根本である。
毎朝毎夕、くり返し命を捨てる修行を積んだ時に、はじめて武士道が身につき、一生失敗を犯すことなく職務を遂行することができるのである。

 ここまで読んでくると、『葉隠』が「死の美学」を説いたものである以上に、「生の美学」を追究したものであることが理解されよう。生を極限まで追究したところに、死が見えたにすぎない。それはあくまでも生を追い求めた道すがらの出来事である。いかに生きるべきか、という疑問に対して、ハムレット的に悩むのではなく、もう一歩前進させてみせた。そこには死ぬ覚悟で生きぬく一人の武士が正座をしていた。それはほかでもない常朝自身の姿であった。

希望や生き甲斐は自分でつくるもの

 今日の世相をみるに、これほどまでに人命尊重がさけばれている時代はなかったのではなかろうか。死んでは何もかも終わりとばかりに、ただ生きることのみを強調している。それに歩調を合わせるように医学が進歩してきた。しかし、どこかに何かが欠けていることを感じるのである。生はもともと死と同時的に考えなければならない。それを無理に切り離すところから生じた(透間〔すきま〕)風のためではなかろうか。いかに生きるべきかの問いは、同時にいかに死すべきかへの問いでもなければならない。そうすることによって、はじめて生きる心の支えが発見できるものである。

 「生きがいがない」とか「希望がもてない」とかいって、自己の命を捨てていく者が多くいる。年間三万人もの自殺者が出ている。しかも、その遺書にはもっともらしい理由が並べられている。『葉隠』はそのところを簡潔に説明する。「多分好きの方に理が附くべし」である。自分が望む方向に、理由はつくのである。そこで一歩踏みとどまって、「だがしかし」と、自らに問うことが、常朝のいう「毎朝毎夕改めては死に々々」である。人の命は一つだけである。とすると、「改めては死ぬ」ことはできない。ここまでくれば『葉隠』のいう死の意味が理解されよう。生の逆説的表現としての死は、『葉隠』全巻を通じてたびたび出てくる。


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