2022年7月7日(木)

古都を感じる 奈良コレクション

2009年9月4日

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西山 厚 (にしやま・あつし)

帝塚山大学教授、前奈良国立博物館学芸部長

帝塚山大学文学部文化創造学科教授。前奈良国立博物館学芸部長。徳島県鳴門市生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。奈良国立博物館では「女性と仏教」など数々の特別展を企画。主な著書に『仏教発見!』(講談社現代新書)、『僧侶の書』(至文堂)など。日本の歴史・思想・文学・美術を総合的に見つめ、書き、生きた言葉で語る活動を続けている。

 奈良の興福寺には金堂が三つあった。中金堂、東金堂、西金堂〔さいこんどう〕である。今もあるのは東金堂だけで、まもなく中金堂の再建が始まる。西金堂は「西金堂趾」の石碑が立っているだけだが、かつて阿修羅はその西金堂に安置されていた。

興福寺曼荼羅(重要文化財/京都国立博物館所蔵) 鎌倉時代
興福寺の建物内部の仏像群を曼荼羅風に描いたもの。下から2段目左のあたりが西金堂を表している。
写真提供:@KYOTOMUSE(京都国立博物館)
 *禁転載

  西金堂は光明皇后が亡き母の冥福を祈って建てたお堂である。光明皇后のお母さんは橘三千代という。天平5年(733)1月11日に亡くなり、その一周忌に間に合うように西金堂を完成させた。本尊は大きな釈迦如来像。お釈迦さまの弟子のベスト10である十大弟子の像や八部衆の像など、お釈迦さまに付き従う眷属〔けんぞく〕が左右にずらずらっと立ち並んでおり、阿修羅はその八部衆のうちの一体だった。

 八部衆は8人の守護神。8人で1チームを構成する。東博は阿修羅だけを特別室に置き、他の7人を別室に置いた。寺に帰ってから8人の間でこんな会話がなされるかもしれない。阿修羅「ボクは本当にそんなつもりじゃなかったんだよ」、7人「いいよ、いいよ、気にしないで、君は一番人気があるんだから」。

 『山階流記』〔やましなるき〕によれば、光明皇后は西金堂の本尊を阿弥陀像にするつもりだったという。そうであれば、阿修羅像は造られることはなかった。しかし、インドから来た仏師に反対される。仏師は釈迦像を造るべきだと言った。お釈迦さまのお母さん(摩耶夫人〔まやぶにん〕)はお釈迦さまを産んで7日後に亡くなった。難産だったのである。若いお母さんは、産まれたばかりの赤ちゃんに思いを残しつつ、この世を去った。そして何十年かが過ぎ、悟りを開いたお釈迦さまは、お母さんに会うために天の世界へ赴く。

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