奈良の興福寺には金堂が三つあった。中金堂、東金堂、西金堂〔さいこんどう〕である。今もあるのは東金堂だけで、まもなく中金堂の再建が始まる。西金堂は「西金堂趾」の石碑が立っているだけだが、かつて阿修羅はその西金堂に安置されていた。
興福寺曼荼羅(重要文化財/京都国立博物館所蔵) 鎌倉時代
興福寺の建物内部の仏像群を曼荼羅風に描いたもの。下から2段目左のあたりが西金堂を表している。
写真提供:@KYOTOMUSE(京都国立博物館) *禁転載
興福寺の建物内部の仏像群を曼荼羅風に描いたもの。下から2段目左のあたりが西金堂を表している。
写真提供:@KYOTOMUSE(京都国立博物館) *禁転載
西金堂は光明皇后が亡き母の冥福を祈って建てたお堂である。光明皇后のお母さんは橘三千代という。天平5年(733)1月11日に亡くなり、その一周忌に間に合うように西金堂を完成させた。本尊は大きな釈迦如来像。お釈迦さまの弟子のベスト10である十大弟子の像や八部衆の像など、お釈迦さまに付き従う眷属〔けんぞく〕が左右にずらずらっと立ち並んでおり、阿修羅はその八部衆のうちの一体だった。
八部衆は8人の守護神。8人で1チームを構成する。東博は阿修羅だけを特別室に置き、他の7人を別室に置いた。寺に帰ってから8人の間でこんな会話がなされるかもしれない。阿修羅「ボクは本当にそんなつもりじゃなかったんだよ」、7人「いいよ、いいよ、気にしないで、君は一番人気があるんだから」。
『山階流記』〔やましなるき〕によれば、光明皇后は西金堂の本尊を阿弥陀像にするつもりだったという。そうであれば、阿修羅像は造られることはなかった。しかし、インドから来た仏師に反対される。仏師は釈迦像を造るべきだと言った。お釈迦さまのお母さん(摩耶夫人〔まやぶにん〕)はお釈迦さまを産んで7日後に亡くなった。難産だったのである。若いお母さんは、産まれたばかりの赤ちゃんに思いを残しつつ、この世を去った。そして何十年かが過ぎ、悟りを開いたお釈迦さまは、お母さんに会うために天の世界へ赴く。