大量殺戮の有無
なぜ莫大な費用を要する都市城壁を彼らは築いて来たのかといえば、繰り返しになるが、それがなければ厖大な命を失うことが確実だったからである。では、彼らはどのような戦い方をしたのだろうか。
日本人で戦争死の数を研究している人は発見できなかったが、長年ウェブサイトで持論を展開していたマシュー・ホワイト氏は、最近「殺戮の世界史・・人類が犯した100の大罪」(早川書房)を著わし、100の紛争についての殺戮数の研究を整理した。
これによると世界は大量殺戮に満ちあふれていることがわかる。ランダムにいくつか紹介すると、チンギス・ハンによる戦いで4000万人、明の滅亡時に2500万人、清朝末期の太平天国の乱で2000万人、白人による北アメリカ支配のために1500万人、ロシア革命の内戦で900万人、ナポレオン戦争で400万人、百年戦争で350万人、十字軍で300万人、フランスの宗教戦争で300万人、朝鮮戦争で300万人などという状況である。
第二次世界大戦での日本人の死者数は、空襲による民間人の死者を含めて300万人超というものであったから、世界での殺戮の凄まじさがわかろうというものである(第二次大戦全体では、ホワイト氏は6600万人としている)。
中国での殺戮の凄まじさは大変なものがあり、これはホワイト氏の研究からではないが、明の滅亡時には張献忠なる殺人鬼が現われ、兵士75万人、家族32万人をまるで草刈りをするように「草殺」したとの記録もある。また、揚州で都市内の住民全体が虐殺されたときには、火葬に付した死体は80万人にもおよんだという。
かなり前になるが、三国志の赤壁の戦いを描いた「レッドクリフ」という映画があった。そこでは日本の合戦では見られない「倒れた兵士にとどめを刺す」場面があったことが印象に残っている。とどめを刺さしておかなければ戦闘に勝利しても長くは安心できないというのが、彼らの戦いだったのである。
このような戦闘を経験したのでは、妻や子供と老人とが暮らしていかなければならない都市を守るためには、絶対にというほど打ち破られない城壁が必要だったと理解できる。
われわれ日本人だけが世界の先進国の多くの民族のなかで、この経験がすっぽりと抜けているのである。日本人の思考の合理性の欠如、あらゆる局面での情緒性の優先と言ったわれわれの考え方や感じ方をこれらの経験が規定し、西洋や中国の人々との間に大きな懸隔を生んでいるのである。
先に紹介したインフラ認識の欠如はこの反映であり、欧米が今なお力を入れている交通インフラ整備を実に安易なレッテル貼りで「従来型」などといったり、無駄の定義も示さずして「無駄な事業」というのもその現れだ。従来から必要なものは今でも充実が必要で、それは「基幹型」とか「基礎型」とでも呼ぶべきものなのだ。