安全保障観
この経験の違いが安全保障観にも影響を与えていることは当然のことである。われわれに安全保障の観念が欠けているのは、「非武装中立」などという夢物語を比較的最近まである政党が声高に叫んでいたことでも明らかだ。
永世中立を掲げるスイスが、いざというときには敢然と武力で戦う仕組みと仕掛けを用意しており、第二次世界大戦時でも上空侵犯の航空機を何機も撃墜したほどの覚悟を示したことを学習していたのだろうか。中立を保つことなど強力な武力が装備されなければなし得るものではないのである。
非武装中立などと言うのは、要するに国防という一番しんどいことはやりたくないと言っていただけだったのではないか。キッシンジャーはマイケル・シャラーアリゾナ大学教授に日本人の安全保障観について、次のような辛辣な批判を語っている。
「日本人は論理的でなく、長期的な視野もなく、彼らと関係を持つのは難しい。日本人は単調で、頭が鈍く、自分が関心を払うに値する連中ではない」
これはかなり前の発言だったのだが、最近では彼にこのようなことをいわれないほどに、事実をもって根拠と論理性のある議論ができるようになっているだろうか。それとも相変わらず希望的な「はずだ」議論に終始しているのだろうか。
図は、家屋を出入りする最も肝心なドアが、日本と海外では異なることを示したものである。わが国のドアはほとんど「外開き」である。おかげで玄関は広く使えて、傘立ても置けるし靴も散乱させることができる。
しかし、このドアのセキュリティはどこで保たれているかというと、それはドアノブ一点だけなのだ。小さな金属がドアの受け柱に貫通しているが、それのみが外敵の侵入を阻止しているのである。
ところが、海外ではヨーロッパ・アメリカ・中国でも、外部との接点であるドアはほとんどすべて「内開き」なのである。外国に旅行したりしたときに注意して観察してほしいし、海外ドラマや探訪のドキュメンタリーをよく眺めていただきたい。彼らの国では安全に関わる肝心なドアほど内開きであることに気付くに違いない。
このドアであれば、暴漢が侵入しようとしても家族総出でドア裏に家具などを置くことで侵入を防ぐことができる。これはアメリカ映画ではおきまりの構図だといえるほどよくある場面である。
ところが日本のドアでは、いくら家具を積み上げても何の役にも立たない。ドアノブを破った暴漢は簡単に侵入してくることだろう。それは何十年に一度起こることなのか、ほとんど一生経験しないことなのかも知れないけれども、日本人以外はセキュリティの高いドアを受け入れて、ドア裏を使えない不便な日常生活を送っている。
これほどにわが日本が、日常生活利便優先でセキュリティが後回しの(というよりセキュリティ概念がない)国柄だということは、この比較でよく知っておかなければならないことなのだ。そういうわれわれなのだと十分に認識したうえで安全保障議論に臨まなければならないのである。
ここで示したインフラ観や安全保障観の欠如や欠陥は、民族の経験に由来しているから、そのことへの深い理解が必要だ。最近紙版のウェッジでも紹介していただいたが、筆者の産経新聞出版の書籍『国土が日本人の謎を解く』に、この国土に暮らしてきたことに由来する日本人の強みや弱みについての考察を記した。ご一読いただければ幸いである。
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