2024年12月23日(月)

対談

2015年10月28日



五十嵐 なるほど。筑波大は地方の公立校で優秀な成績だった子たちが、首都圏では比較的安く生活できる街で自らバイトしながら通っているような大学なので、労働問題にはビビッドに反応します。

毛利 まじめに勉強していた子たちがコミュ力に負けていくという構図でもありますね(笑)。

五十嵐 ここを分断させるような言い方はしたくありませんが、コミュ力とかセンスとくくられるようなものへの複雑な思いはあると思いますね。そのあたりのところは、右派の若手論客ですけど、古谷経衡さんが「スタイリッシュ」で「リア充」なSEALDsへの「嫉妬」を率直に吐露した文章を書いていて、SEALDsへのある種の感覚を代弁しているのかなとは感じました。

毛利 うまくやっている人たちはもちろん武器にすべきですけど、うまくやれていない人はコミュ力で排除されてしまう残酷さはありますよね。そこは指摘しておきたいところですね。

カルチャーがフラット化したあとの世代による運動


五十嵐 海外の運動で、SEALDsと近い空気感のものといえば何になるのでしょう? 

毛利 ある意味ではイギリスのパンク文化など、サッチャリズム以降に出てきた若者文化にはもともと全部そういうところがあります。広告会社的なイメージ戦略とニューレフトが結びついて、パンクが誕生したわけですね。70年代以降のイタリアのアウトノミスト(街頭や工場、学校などでの自治権を求める社会運動)も、おそらくはこういう雰囲気で広がっていったのではないでしょうか。もちろん1990年代のReclaim the Streetsや2000年代のOccupy運動、そして台湾のひまわり革命や香港の雨傘革命なんかも明らかに影響を与えていますよね。

五十嵐 SEALDsがアウトノミストを直接参照したというよりも、2000年代前半の高円寺の運動やイラク戦争以降のサウンドカー文化などから間接的に参照したということですよね。

毛利 そうです。でも高円寺の「素人の乱」の時はあえて3人でデモをするといった伝統的なデモに対する批評性もあったので、SEALDsとは内実が違いました。中心的な存在だった松本哉くんも、日本の新左翼的な経験を踏まえてその限界をわかったからこそ、あのような文化闘争に行ったのだと思います。

五十嵐 イラク戦争の時のサウンドデモなどには、アウトノミスト的な人たちの現代的な展開を少し感じていたんですが、どうだったんでしょう。

毛利 あれは高円寺とは違った意味で先端的な人たち、アーティストやミュージシャンたちの運動でもありましたよね。SEALDsにも繋がるようなデザインのセンスや文化の形式は、あそこで一般化したんだと思います。サブカルチャーがメインカルチャーになった契機で、その当時のエッジの効いた表現だったものが、今はメインストリームの文化に流れ込んでいます。SEALDsは実際に意識したかどうかはともかくとしても、その中で育った子たちなんだと思います。『NO!! WAR』 (野田努・水越真紀・三田格他編、河出書房新社、2003年) なんかを見ても明らかなように、イラク戦争反対のサウンドデモのスポークスマンとなったのもよくよく考えると僕の世代で、同業に近い人だと椹木野衣さんや、野田努さん、三田格さんといったあたりでした。ヨーロッパで起きていた、1970年代にニューレフトが文化運動になっていくのを羨ましいと思っていた世代が、サウンドデモで「これだ」と思ったわけですよね。ヨーロッパやアメリカのエッジの効いた活動が、日本でもできるんだという新鮮な感覚でした。でもSEALDsの人たちにはそんなコンプレックスも……

五十嵐 ないですよね。


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