2024年12月22日(日)

対談

2015年10月26日

健康被害と反原発運動

五十嵐 専門家集団が機能しうるのか、受け入れられるのかどうかは、たとえば原発推進派か反原発派なのかが決定的な切れ目になってしまうんでしょうか? 放射線のリスクそのものは、推進派であろうと反対派であろうと独立した事象として評価すべきものであり、純粋に科学の話だと思うのですが、どうやったらそこを切り離して議論の出発点を作れるか、ずっと考えあぐねているんです。

 切り離すべき側面は少なくとも4つほどあると思います。一つは健康被害などに関する科学的なリスク判断です。それから一次産業を含めた復興。そしてこの事故により起こったさまざまな被害の責任と補償の問題。最後にこれからのエネルギー政策。これらはすべて位相が違う問題だと思いますし、折にふれて「切り離すべきだ」と言っているのですが、そのたびに一部の人たちから批判を浴びます。

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 脱原発は本来、現在起こっている被害を過大に見積もらないと達成できないものであるはずないですよね。すでにさまざまに、膨大な社会的被害が出てしまっている。それは誰にも否定できません。しかし、「可能性はゼロではない」「今の科学では完全にはわからない」などといった言葉のもとに、科学的には決着がついていると言っていい健康被害まで懸念する声がいまだに発せられています。そのたびにそれを「デマだ」と非難する側との間に分断が深まり、膨大な社会的コストを投入した論争が続いているのもまた事実です。

 エネルギー政策についての僕自身の現時点での結論は、「現在の日本にとって原子力は社会的に扱える技術ではない」です。広島・長崎以降、原子力はすぐれて政治的・軍事的なイシューそのものですので、政治的立場を自己のリスク判断から切り離せと言っても土台無理なのかもしれない。そして、そういう「特別なイシュー」である原子力災害がもたらした健康被害が晩発障害である以上、「今はまだわからない」という言説に心を乱され、「政府は信用できない」となってしまう人たちが多いのも致し方ない部分があります。ほかの公害問題などと比べても、圧倒的に社会的分断を生み出しやすい要素が揃っているのです。今後万が一事故が起こるたびにこうした分断が繰り返されるとなると、これはもう「社会」が持たないなと、社会学者として率直に危惧せざるを得ないのです。

 しかしここで意識しておきたいのは、事故が現に起きた現在、将来的な健康被害の可能性を目いっぱい見積もって脱原発を主張すると、もっと被害が出ることを待望するロジックに見えてしまうこと。福島の子どもたちや、将来生まれてくる子どもたちへの呪いのように聞こえてしまう。福島県で暮らす人や生産者の方々が、非常に嫌う主張となってしまうのも当然です。そこから切り離された脱原発運動はありえないのでしょうか。

毛利 イアン・トーマス・アッシュというアメリカ人の映画監督が撮った『A2-B-C』という映画があって、このタイトルは甲状腺検査で見つかる嚢胞の大きさを示す基準です。「A2」は5mm以下の結節か20mm以下の嚢胞があるので2年度の健診が必要、「B」や「C」はそれ以上の結節や嚢胞があるので2次検査が必要とされていて、福島の子どもたちにA2が増えていることを伝えた映画です。政府や厚労省の説明ではスクリーニング効果、つまり事故前よりも大規模に調査をしたから見つかる数も増えたのだとされているわけですが、そういう状況のなかで交わされる母親同士の会話や、みんながガイガーカウンターを持って歩いている姿とか、現地に行ったことのない人には相当にショッキングな映像なんですね。

 この映画にとっての最良の結末は、すべてまったくの杞憂であった、映画で言われていたことは全部ウソだった、というものです。それは監督自身にとっても同じなんですが、映画作家としては、今不安に怯えている人たちの姿や起こっていることも撮らなければいけないわけです。

 この映画は脱原発運動界隈でもよく見られていて、運動の「燃料」になっている面もたしかにあるんですけど、それをすべて否定することは難しいんじゃないでしょうか。


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