毛利 Jポップを洋楽やアメリカのヒップホップとの落差で聞いていた世代と、はじめからJポップが一番おもしろいものだった世代との違いがはっきりあって、そこには断絶がある。同時に切れているからこそ、スタイルとして参照しやすかった面もあるのではないでしょうか。素人の乱の松本くんなんかは、中核派がヘルメットを被ってやっていたことをパロディにしても伝わらない、あるいはこたつや鍋でデモを「脱臼」させても、そもそも中核派すら知らない人に届くはずがないと気付いたから、現在のような活動に移行したんだと思います。
でも、SEALDsはまあ、そもそもニューレフトなんてもういいんじゃない、という感じなんじゃないかな(笑)。その変化は僕らも自覚したほうがいい。だいたいすべての議論を国会前に集結させる必要はないし、アカデミックな議論はそれはそれとしてきちんとする必要があるでしょう。でも、同時に国会前も応援してもいいのではないか。日本の新左翼が帯びてしまった党派的な排他性から脱却して、お互いに役割分担をしていくようなやり方ですよね。
五十嵐 まったくそう思います。とても腑に落ちる整理です。
――SEALDsについては「共産党の動員だ」といったなかば罵声に近い批判から、反原発運動との親和性を批判する人たちもいました。そこはどう見ていますか?
五十嵐 そうですね、ここは非常に微妙な話なのであまり発言したくないのですが、福島に思いを寄せていて、脱原発運動に強く反発していた人たちの一部が、SNSではそのままSEALDs批判に移行しているように見える。それはちょっと気になっています。
さっきもお話したように、僕は一貫して原発事故については「健康被害」「復興」「エネルギー政策」「責任」の4つを切り分けるべきという考えでいます。これまでは福島の状況にシンパシーを持っていて、過剰な危険視は福島差別につながると感じている人たちほど、これらを切り分けて考えられているという実感がありました。しかしいま、「被害を盛る」脱原発運動へのまっとうな反発が、原発再稼働の支持とか安保法案の賛成、さらには安倍政権の支持へとつながる流れがツイッターでは目につくのも確かです。福島県内で実際にそういう人たちに会うことはほとんどないので、実際にはごく一部だとは思いますが。
もちろん安保法案にもさまざまな意見があるのはいいことですが、脱原発運動への反発に端を発する政治的なスタンスの友-敵認識みたいなものが背後にあるのだとしたら、それは違和感がありますね。それだけデマや「風評」に深く苦しめられてきたんだということは強調しておく必要がありますが、福島に関わる人たちの政治的なスタンスが均質化していくのは、復興のためにもあまりよいことではないでしょう。
毛利 切り分けは難しいでしょうね。逆側に目を移せば、共産党はSEALDsに本気で協力したいのなら、むしろもう少しあえてSEALDsから距離を取ったほうがいい気がしています。これはあくまでもシングルイシュー・ポリティクスだから、とにかく安保法案をどう止めるかに集中して、ほかのイシューをかぶせないほうがいい。でも「あの問題とこの問題は根底において問題を共有している」という物言いを、左派はしがちなんですよね。
五十嵐 左右を問わず「どちらの側」も、イシューを大きく繋げたいところがありますよね。ネットで見えるものと現実はずいぶん違うとは思いますが、「友敵」の地雷がそこかしこにあるように感じられる状況では、「うみラボ」などにも関わっている身として、さまざまなイシューに関しての発言に気をつかわざるを得ない難しさは感じますね。
毛利 STAP細胞にしろ、新国立競技場やエンブレム問題にしろ、「ネットの民」が猛威を振るっていますからね。ある種の「集合知」が機能すると、ここまで壊滅的な効果があるのかと驚きます。せいぜい数十人とか数百人のボリュームでも、こんなことになってしまう。あらゆることで意思決定プロセスが難しくなっていますね。