いのちや、それに連なる言葉を、知識として蓄えているだけでは生き方に反映されない。例えば、いのちは限りあるものだと気づき、だから今を懸命に生きようと行動するエネルギーは、『いのちは有限だ』という机上の知識ではなく、誰かの死に接した体験から『限りあるいのちを大切にしたい』という感性が宿っていることによって、生まれるものだ。感性は、日々の生活における実践でしか育めないからこそ、家族の役割が大きいと鈴木は言う。
「私が保育園に通っていたころ、祖母とお墓参りに行きました。祖母はお墓の前で『このお墓には、ばあちゃんの子どもが3人いるんだよ。みんな病気で、かわいそうなことをした。でも、お墓の中で、みんなのことを守っているんだよ。ばあちゃんももうじきお墓に入るけど、みんなのことを守るからね』と言って涙を流すんです。私は祖母を見て『お墓、大切にしなきゃ』って思いました。それは理屈じゃなくて、誰かが亡くなると寂しそうに涙を流すんだ、いのちや家族はつながっているんだという実感でした」
「家族は、祖父母、両親という世代的な縦のつながりと、いま生きている人との横のつながりがクロスする場所です。家族との生活の中で、自分のいのちが多くの人に愛され、支えられ、つながっているという実感を持つことが、いのちの感性を育みます。子どもは、その感性を持って社会へ出ていくのです」
しかし今、親から子どもへの愛情は、家を建てよう、教育費を稼ごうといった、外形的なものへ傾斜している。鈴木も、それは個々の家庭の価値観だからと認めつつも、家族だからこそ生活の中で伝えられること─いのちの感性を伝えること─を、一人ひとりが考えなければならないと、強く感じている。そのきっかけを提供したいというのが、「いのちの授業」だ。
鈴木も「私も、子どもが小児がんになるまでは、『家族は大事』と言いながら、家や出世が先でした」と笑う。鈴木の長女の景子は、1992年、3歳で発病し、6歳で亡くなった。
自分がいただいたものをバトンタッチすることが、
人生のテーマだ
「闘病中は不条理への怒り、諦めや絶望が繰り返され、亡くなったときは罪悪感に苛まれました。悲嘆に暮れ、後悔が募り、がむしゃらに仕事に打ち込みました。体験を自費出版しようとしたのですが、最初の原稿は怒りばかり。それを書き直しながら内観し、死別から5年経ったとき、本で『子どもの供養とは、親が生まれ変わること、子どもの分まで生きること』という言葉に出会って、どっと涙が出ました」
「じゃあ、私は何をしたらいいんだろう。そう思ってアンテナを立てたら、それまでつらかったことばかり覚えていたのに、台風の中を子どものためにハンバーガーを買いに行ってくれた先生、下の子どもを預かってくれた近所のおばさんなど、自分たちが支えられていたことを思い出すようになったんです」
それで鈴木は、「自分がいただいたものをバトンタッチすることが、人生のテーマだ」と、会社に勤めながら、休日に「いのちの授業」を始めた。3年ほどしたある日、介護施設を訪れた鈴木は、「いま体が動くうちに大切にしたい思いに生きよう! 人生二度なし」と会社を辞めて「いのちの授業」に専念。「長男は中学生でしたし、『いのちで飯が食えるか』とも思いましたが、子どもの分まで生きるんだから、やるだけやってダメならいいじゃないかと」