鈴木が「いただいたもの」とは何だろうか。それは、先生や周囲の人に支えられて家族がやってこられたという思いであり、何より、生き抜こうとする景子から受け取ったメッセージだろう。人に尊厳を感じることも、感謝することも、懸命に生きることもすべて、いのちを媒介としたものだ。鈴木は、景子の発病、闘病、そして死を、言葉と写真で伝えながら、この「いただいたもの」をつないでいる。
鈴木の授業が、いのちの感性を取り戻させるのは、空気のように存在しているのが普通だと思っていたいのちが、そうではないと気づくからではないか。いのちに連なるキーワードをあらためて実感することで、そこから何を大切にして生きるかを考え始めるのだろう。
経験が経験だけに、鈴木は使命感に駆り立てられ、悲愴感を漂わせているのかと想像していた。しかし、時間とともに自らを内観したためか、知的で穏やかで笑みも交えた話しぶりは、もとの人柄が滲み出てきているのだろう。肩に力が入っていないから、話に引き込まれていく。
「初めは、『鈴木さん、あのころ怖かった』って言われるくらい、力が入っていたんですよ。でも会を設立して2年目くらいに、ある限界を感じたんです。小学校で『いのちの授業』をしたとき、薄ら笑いして聞いている子がいた。気になって、あとで校長先生に尋ねると、虐待された経験のある子でした」
「子どものために親が涙を流す姿は、虐待された子どもには遠い世界の話なんだと気づきました。だから、私の話では届かない人もいる、いつか感じてくれるだけかもしれないんだなって。でも一方で、そういう子どもたちの心を開くには、地域の人や周りの人が、もう一回つながりを持たなくちゃいけないから、学校の先生とか医療福祉職とかカウンセラーを目指す人たちに向けて、いのちを考えるきっかけとなるような講座を、大学で試行しはじめています」
心の土台に、いのちの感性が宿っていないなら、授業で気づかせることはむずかしいだろう。それが少数事例ではなくなってきている世の中だからこそ、鈴木は活動の幅を広げている。
「私は景子ちゃんを救えなかった。そんな自分が救われる思いなんです」。授業を続ける気持ちを、鈴木はこう語った。それとともに、みんなの中で景子が生き続けることがうれしいのではないかと、筆者は思う。中西進・奈良県立万葉文化館長から、『万葉人は、いのちとは生きていること自体ではなく、生命が輝いている状態と考えた』と学んだことがある。鈴木が話すことで、死してなお景子の生命は人々の中で輝いているはずである。(文中敬称略)
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