2024年4月20日(土)

Wedge REPORT

2015年12月8日

知的障がい児・者の居場所に

 トラッソスが目指すのは、知的障がい児・者が笑える社会だ。彼らが自宅と学校、自宅と職場の往復だけでなく、社会に出ていけるように。まずはトラッソスが彼らにとってもう一つの居場所となっている。「子どもたちもいずれ社会人となり、家族以外の集団の中で生活します。トラッソスでは、サッカーのイメージよりも、彼らの社会生活、ひいては人生のイメージをサッカーを通して共有していきたいと考えています。私たち指導者が、彼らの発信にどれだけリアクションができるかが大切だと思います。彼らがルールを上手く理解できなかった時は、どうしたら理解しやすくなるかを考えるのが指導者だと思っています。それに、健常や障がいの区別なく、僕らには誰でも他者がいて、他者のことを大切にし、気にしながら生活していると思います。そういうことを彼らは気づかせてくれたり、発見させてくれたりするんですよね」

 「スクールでは、重度と軽度の子どもたちが一緒に練習しています。『難しいんじゃないかな』と思いがちなんですが、なんとなく軽度の子が重度の子を手助けするんですよね。重度の子どももついていく。スポーツの上達だけなら、分けたほうがいいのかもしれないですが、これがお互いにいい効果があるんです。また、7才の子どもと42才の大人が一緒にプレーしています。そこに価値がある。一見年長者が迎えに行っているだけに見えるんですが、仕事が減って、居場所がなくなってきた彼らにとって、誰かのためになることをして、スタッフから『ありがとう』って言われる経験が重要なんです」

トラッソスでは、より専門的な分野は大学と提携し、臨床心理士を目指す大学院生がメンタル面もサポートしている(写真:トラッソス提供)

 「普通にしていると気づかない。何かを伝えたくても伝わらなかったり、言葉にできなかったり。間違えて伝わったり。それでもお互い『認めてるよ』っていう、チームスポーツならではの信頼が生まれるんです。そしてその小さなコミュニティーでのコミュニケーションが次の居場所につながり、社会進出へとなる。知的障がい児・者が地域で当たり前に暮らす社会です」

Jクラブのコーチからの転身

 吉澤氏は、トラッソスを設立する前は、Jリーグのトップチームの下部組織で指導者として働いていた。その頃は、今の姿からは想像がつかないようなコーチだった。「チームが勝つために、自分の立てた練習メニューや戦術を選手たちに実行させていました。僕自身、目をつり上げて、声を荒げて命令する。選手には嫌な気持ちがあったと思いますが、試合に出るために、それに従っていました。『本当にこれでいいのかな』という気持ちがよぎりましたし、選手たち自身のポジティブな気持ちは存在しているのかが疑問で葛藤の中、コーチを続けていました」

 そんなある日、吉澤氏は特別支援学級で子どもたちを相手にサッカーを教えるというアルバイトを始めることになった。「登校拒否をしているサッカー好きの中学3年生男子が、僕が初めて担当した子どもでした。校長先生も担任の先生も協力してくれて、一コマ授業をもたせてくれたんです。『サッカーの授業するよ』と声を掛けると、しばらくして見に来るようになって。それが月1回、週1回と学校に来る頻度が増えて、最後には文化祭で主役までして卒業したんです。『サッカーの力ってすごいな』って、その時に思ったんですよね」

 そうして、吉澤氏は昼は特別支援学級、夜はクラブチームでサッカーを教えることになった。あまりにも違うサッカーと自分自身に悩まされていたある日、吉澤氏にトラッソス設立へと駆り立てた出来事が起こる。「知的障がいのある生徒が一人でボーっとしていたんです。彼の足元にボールを置いてみたんですが、蹴ろうともせずに、ニヤニヤしていたんですよね。そこで僕がボールをクルクルって回転させたんです。地面で回るボールを見て、彼はニコって笑ったんです。ぱっと明るい表情に変わったんです。その時、『この子と一緒にサッカーがしたい』って僕は思ったんですよね」

 子どもの頃からサッカーをしていて、仕事でもサッカーをしていた吉澤氏だが、「誰かとサッカーをしたいと思ったことはなかった」という。ニコっと笑った子どもの姿の向こうに彼が重ねたのは、中学時代にいじめられていた自分自身だった。「いじめが結構しんどくって、サッカーが唯一の逃げ道だった。だから、サッカーって楽しいな、なんて気持ちはなかったんです。メンバーがいるのも仲間がいるのも当たり前に思っていました。でも、その時、今までの価値観がガラッと崩れ去っていくのを感じました。今まで逃げ道にしていたサッカーを生きがいにできるんじゃないかな、って思ったんです」


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