こうした経緯から、日本の資料や報道には、「ダライ・ラマのインド亡命により中印関係が悪化したため中印の武力衝突が起きた」との説明が散見されるが、これは誤解含みだ。
チベットの指導者をインドが庇うことを中国が嫌ったことは事実だが、中国共産党政権は成立当初から、インドとの国境争いには「積極的」であった。中国は、かつて英領インドとチベットがシムラ条約(1914年)で決めた国境(インドとチベットの境)である「マクマホン・ライン」をそのまま中印国境とすることに一貫して強硬論で臨んできた。
洋の東西、今昔を問わず、戦争を起こすのに、「きっかけ」となる事件が必要なのは世の常。「ダライ・ラマ亡命」は戦闘開始の「引き金」に使われたに過ぎない。中国はいずれインドと国境線で一戦交える可能性を視野に入れ、周到な準備を進めていたのだ。それが奏功し、人民解放軍は長い中印国境上での全戦闘に勝利したのである。
ダライ・ラマの係争地訪問は、中印間の「火種」か?
中印国境紛争の最大の激戦地となったのが、インドとパキスタンの国境ともなっているカシミールと、ブータンの東にあるアルナーチャル・プラデーシュ州であった。
そして、この紛争から約半世紀が過ぎた最近、アルナーチャル・プラデーシュ州という、およそ日本人が聞きなれないこの地名が突如、日本のマスメディア上に現れたのである。
それは約ひと月前、ダライ・ラマ14世法王訪日の際のことであった。日本滞在中に法王は複数回にわたって日本のメディアや在日外国メディアとの接触をもったが、今回は、いつもの法王来日時とは少々異なる、ある話題に日本メディアの関心が集まっていた。
それは、法王が日本からの帰途、アルナーチャル・プラデーシュ州のタワンという地域を訪問することについてであった。朝日新聞は、法王の訪日に先立ってこの情報を「ダライ・ラマが中印国境訪問計画 両国間の火種に」との見出しで次のように報じた。
――同地域では、インドを植民地支配していた英国と中国併合前のチベットが20世紀初頭に国境として定めたマクマホン・ラインを、インド側は国境線として主張。中国はこれを認めず、62年の中印国境紛争では中国軍が同ラインを越え、タワンを含む同州全域を一時占領し、兵を引いた現在も領有を主張している(朝日新聞 asahi.com 2009年10月23日)。
記事は、法王のタワン訪問に中国政府が反発していると伝え、同時に、タワンについては「チベット仏教寺院がある(中略)59年のチベット動乱でダライ・ラマがインドへ亡命する際、最初に立ち寄った町」と紹介している。この記事は間違いではないが、読者に誤解を生じさせそうな部分がいくつかある。
まず、マクマホン・ラインを定めた当時、現在と同じ「中国」は存在していない。当時の「中国」とは、国民党政権による中華民国であった。しかし、記事中の「中国併合前のチベット」という表現の中の「中国」は現在の共産党による中華人民共和国を指す。
意図的ではなかろうが、この記述は、中国の「代替わり」を読者に見過ごさせ、中国の現代史をあたかも「一本の糸」であったかのように誤認させかねない。そして、チベット動乱等については年号が明記されているのに、マクマホン・ラインのくだりでは「20世紀初頭」という曖昧な表現のみ。この国境案が織り込まれた1914年の「シムラ条約」のことにはまったく触れられていない。