今の青年たちは聞いたことがない名前だが、ベビーブーマー以前の人にはノスタルジーを感じさせるのが唐牛健太郎であろう。彼の昔の仲間たちも鬼籍に入りつつあり、最後のタイミングで出された本が、『唐牛伝』(佐野眞一、小学館)として書店に並んでいる。売れているどうかは別にして、そこに掲載されている数枚の写真を見るだけで、この人物に吸い込まれてしまう。プロが取ったとはいえ、新橋の飲み屋”石狩“で親父をやっていた時のものなど、原画がほしくなるほど、いい顔をしている。
虎は死んで皮を残し、人は名を残す
虎は死んで皮を残し、人は名を残すということもあるが、名前以外何も残さなかった青年、唐牛健太郎の魅力はこの数枚の写真にすべて凝縮されている気がする。死んで花実が咲くものかという月並みな言葉もあるが、全学連の委員長、ある時は沖縄の離島で働き、新橋で飲み屋をやり、財界人から一目も二目もおかれて大企業も木戸御免で、果ては北海道紋別オホーツクで漁師となり、有名医療法人徳洲会の幹部をやり、50歳も待たずに死んでしまった。
もと筋金入りの左翼で、後に転向した田中清玄との関係も今となっては勲章の一つでしかない。特に、田中の東北の母親が、優等生だった田中の左翼活動と逮捕を嘆いて自殺したことを知れば、母一人子一人の唐牛も身につまされたことであろう。葬式では、加藤登紀子がアカペラで「知床旅情」を歌い込んだそうだ。
そんな唐牛を名前でしか知らないが、今回の「唐牛伝」を読んだだけで彼の口臭がにおうほどの存在感を感じた。SNSどころかテレビでさえも、ろくに普及していない時代にこれだけの青年がいたことに驚きを禁じ得ない。戦後日本の復興の陰でイデオロギーは別にしても、雄々しく隆々と生きた青年であった。彼の真骨頂は、デモ隊に向けたアジ演説の最中に空を跳んだことであろう。誰一人としてその場面で跳ぶとは想像していなかったようだ。彼の跳躍に多くのデモ隊員がしたがった。おそらく毛沢東がそうであったように、青年唐牛健太郎はマルクスの原典はあまり読んでいなかったのではないだろうか。