浜野 興行収入で、邦画が洋画を逆転していくその最初の流れをつくったのは「踊る」だったので、そのこと1つ取っても。
それまで足を向けようとしなかった人に、映画館まで行ってみる気にさせたっていう、ちょうどいわゆるシネコン(シネマ・コンプレックス)が各地にできてく時期をとらえてたわけだけど、それはやっぱり大きいことだった。
そこには意図して仕掛けたもの、たまたまうまくいった部分の両方があっただろうと思いますが、いま振り返るとしたら亀山さんは…。
亀山 あの時、98年ごろ、僕のやってることは角川さんが出版サイドからおやりになったことを、テレビ側からやろうとしてるのかなと僕自身感じてはいました。それでも角川さんと並べて評価していただけるのは身に余る話ですけどね。
というのも、僕がちょうど学生だったとき、角川映画の波が押し寄せてきたんです。「スケールだとハリウッドに敵わないよなぁ、日本映画は」、と思っていたとき、邦画もできるんだってことを思わせてくれた。
それを僕はいま、「踊る」でやってるのかもしれないなぁという感覚です。
そしてそれは、映画そのものの作り込みもさることながら、ひとつの「現象」をつくっていく仕事をしたということです。
森村誠一原作「人間の証明」(1977年)、ね。あれがいちばん強烈だったのですが「母さん、ぼくのあの…(帽子、どこへ行ったんでしょうね)」ってほら、いまだにソラで言えるくらい。
監督の人選も、大林宣彦さん、相米慎二さん、井筒和幸さん、森田芳光さん、根岸吉太郎さん…って面々で、映画好きだった自分としては若手が抜擢される時代が来たぞとわくわくさせてくれるものでしたし。
浜野 「現象」をこしらえたという意味で角川映画の功績は、本当に大きい。映画は大衆の娯楽だし、娯楽は大きなビジネスになるんだっていう、そのことを忘れかけてましたからね、日本映画は。
ヒットの法則はトレンド現象をつくること
浜野 亀山さん自身はしかし、そんな角川映画の隆盛を見ながらフジテレビに入って、どうして入ったのという経緯は後で出てくると思いますが、ドラマに関わりますよね。
亀山 30代はドラマでした。いま思うと、テレビドラマの全盛期だったって言っていいでしょうね。幸せな時期に巡り合えたなと思います。
ただ当時、編成部というところでドラマを担当していてよく思ったのが、ドラマというのは視聴者参加型の同時進行ドキュメントみたいな作り方だなってことでした。
浜野 というと?
亀山 初回の反応が、当時の例ですと第4話か5話の台本を仕上げる頃に入ってくるでしょう。
その後もどんどん、視聴者からのレスポンスが聞こえてくるわけです。もともとは別れさせてしまう筋書きで恋愛関係を描いていたのに、結ばれてほしいって声があまりに圧倒的だから、幸せな結末にするというような、ね。木村拓哉さんと山口智子さんの「ロングバケーション」(1996年)がその例でした。