最初はイヌかと思った。近所の野良犬が、我が家の庭に迷い込んできたのか、と。だが、居間のガラス越しに眺めるとどうもおかしい。顔が間違いなくタヌキなのだ。タヌキなのにほっそりとしているのは、胴体の右半分に毛がないせいだ。しきりに後脚で毛のない胴体を掻いている。皮膚病なのか、疥癬とか?
いずれにせよ、40年以上も現在の住宅地に暮らし、庭であれ町内であれ、野生のタヌキを見かけることなど初めての体験である。
ただ、野生動物との遭遇は過去にもあった。約30年前、物置き小屋の前にヘビの比較的大きな抜け殻を見つけたことがある。「へェ、こんなのいるんだ」と思ったが、そんな記憶も薄れた7、8年前、早朝に新聞を取りに行こうと玄関を開けると、足許に大きな青大将がとぐろを巻いていて、仰天した。逃げ去った長さは1・2メートルくらいか。
そうしたことがあったので、今回のタヌキ出現で私は改めて、「我々は気づいていないが、今現在も野生動物に囲まれて暮らしているのかもしれない」と思った。
すぐに思い出したのは、「自然界の報道写真家」を自称する動物写真家の宮崎学さん。長野県の伊那谷を拠点にして、日本全国の野生動物の迫真的な写真を撮り続けている宮崎さんを訪ねたのは、随分前のことだ。
宮崎さんは、生まれ故郷の伊那谷の森のあちこちに監視カメラを仕掛け、自然界の野外スタジオとする手法で知られている。日本のワシ・ タカ類全16種の生態写真を15年かけて初めて撮影した人がその時に取り組んでいたのは、「生命の輪廻転生」だった。森の中のシカやニホンカモシカの死体の周辺にカメラを設置し、死体が他の動物や野鳥、昆虫などに食われ、腐敗し、骨となり、やがて土に還って行く様子を克明に記録する。
私は観察小屋のモニター画面を見せてもらい、ふだん植物性の餌しか食べないリスが、口の周囲を血まみれにしながらカモシカの肉を貪っている映像に、衝撃を受けた。
「自然界は花鳥風月の世界ではありません」
と宮崎さんは、私に言った。
「一個の死は、バクテリアから大型野生動物まで、他の生物にとって生命維持活動のため必要不可欠です。死体は自然界の循環に組み込まれており、他者が待ち望んでいます」
凡百の生命観とはまるで異なる生命観だ。
それから、1979年の野心作。『けもの道』が撮影された集落近くの山道へ行った。宮崎式監視カメラが設置されたのは、郵便配達員がバイクで通う人家裏手の生活路だ。カメラに写っていたのは、イノシシやキツネ、テンなど14種の哺乳類と、カケス、コジュケイ、ヤマドリなど12種類の野鳥。
写真集が出版されるまで、地元の人でさえまるで気づかなかった数多くの野生動物だ。この初期の実験的取り組みにより、宮崎さんは自然界に関し二つのことを学んだと語った。
「野生動物は多くいるから見えるのではなく、見たいと切望するから確認できる」ということと、「現代の野生動物は、人工物を拒否せず、むしろ前提として生きている」こと。
そして最後に、崖下の林の中のタヌキの溜め糞跡へと案内し、「現在の野生動物のもう一つの側面」を教えてくれた。
うずたかい排泄物を小枝で崩し、点検する。
「これは未消化のビニール袋、こっちはシカを食べた時のに毛玉、これがアルミホイル」
宮崎さんによれば、伊那谷のタヌキやキツネは、もっか道路沿いの駐車場や飲食店、観光地のゴミ場漁りが常習化している由。
「特に雑食性のタヌキがそうですが、人間の食べ残しと一緒に包装容器の一部など消化できないものも食べてしまう。そのせいか、皮膚が爛れたり、ガンになる例が多いです」
人間社会と自然界が交わる境界領域では、野生動物の側に適応範囲を越えたマイナスの影響が濃く現れ始めた、というのだ。
私は今回のタヌキ騒動で、その時に宮崎さんの自宅で見せてもらったゴミ場漁りをするタヌキの写真を、真っ先に思い浮かべた。
我が家の庭に闖入した抜け毛タヌキも、森や林からゴミ箱伝いにやってきたのか?
実はこのタヌキ騒動、後日談がある。