「バトパハの街には、まず密林から放たれたこころの明るさがあった。井桁にぬけた街すじの、袋小路も由緒もないこの新開の街は、赤甍と、漆喰の軒廊(カキ・ルマ)のある家々でつづいている」(金子光晴『マレー蘭印紀行』)
思い返すと、ほんの短い時間訪れただけなのに、いつまでも記憶に残っている場所というのがある。私の場合、マレーシアのバトゥパハがそんな場所の一つだ。
マレー半島の西岸、マラッカとジョホールバルの中間に位置するバトゥパハは何の変哲もない熱帯の町だが、戦前に東南アジアを放浪した詩人の金子光晴が偏愛した町で、フランスのパリへ行く前とパリからの帰りに計3度もバトゥパハ(金子の著作ではバトパハ)に立ち寄って滞在している。
金子ファンにとって気になる町、というより一部ファン以外は足を向けない町だ。
金子の足掛け5年におよぶ東南アジア、欧州旅行は、妻の森三千代を愛人(後の美術評論家・土方定一)から引き離すのだけが目的の日本脱出、あてどない逃避行だった。
生活力のない金子は、唯一の能力と呼べる画才(少年時代に日本画を習った)に頼り、旅先で風景画や肖像画を描いて旅費を工面したが、インドネシアのスラバヤでの風景画展がたまたま成功を納め、妻・三千代のパリまでの渡航費1人分を作ることができた。
金子にとってのバトゥパハは妻を見送った後の、次なる資金稼ぎの出発点でもあった。
バトゥパハは日本資本が上流のセンブロン川流域にゴム園を開発したことにより、25年ほど前に急に発展した町だった。ゴムが不況になると、同じく日本資本の鉄鉱山の開発が始まり、金子が到着した1929年当時、町には40〜50名の日本人が住んでいた。
金子はバトゥパハ川の船着場近くの〈日本人倶楽部〉の3階の一室を根城とした。
金子が逗留を決めたのは、宿泊費が無料で、絵を買ってくれそうな日本人も多く、しかも当時排日活動の激しかったシンガポールなどと違う友好的な新開地だったからだ。
1988年に私が取材途中で立ち寄った時、金子が泊まったバトゥパハ河畔の3階建ての建物はまだそのままそこにあった。
といっても、すでに〈日本人倶楽部〉ではなかったが、3階はガランとした広間で、かつては片側に3つの仕切り部屋があり、3方に鎧扉のある角部屋が金子の部屋だった。
窓から覗くとすぐ前方に黄濁したバトゥパハ川が見える。風景自体の変化は少ない。
金子は滞在中、船に乗ってゴム園や鉄鉱山で絵を売り歩く傍ら、町をくまなく徘徊した。そして「瘴癘蛮雨(しょうれいばんう)」の風土を克明に記し、「旦那衆」の英・蘭・日本人と富を貪る華僑、酷使されるマレー人の織り成す植民地社会の実態を、生き生きと冷徹に記録した。
私は近くの船着場へ歩いて行った。
木造の桟橋はおそらく昔のままだ。だが、輸送手段がとっくにバスやトラックに変わっているため、かつての天然ゴム、鉄鉱石の積み出し港だった頃の賑わいはもうない。
金子は丸木舟に揺られパトゥパハ川を往来し、『ニッパ椰子の唄』という詩を書いた。
〈赤錆のみずのおもてに
ニッパ椰子が茂る。
(中略)
文明のない、さびしい明るさが
文明の一漂流物、私をながめる。
(中略)
「かえらないことが
最善だよ。」
それは放浪の哲学。〉
金子は、バトゥパハの日本の飲み屋の厠の中で、老酌婦と自分とを重ねた。
便所紙に使用された占い本の絵に、板子を抱いて波間に溺れ漂う人間の姿がある、それが辺境に吹き寄せられた女たちや自分だ、と。