さて、薩摩の英雄西郷隆盛に対して長州には誰がいるか。磯田氏は「西郷を“金”、大久保を“銀”」と評された。高杉晋作もここでいう「金」に近い人間だったが、維新を見る前に亡くなった。
長州五傑(長州ファイブ)の1人だった伊藤博文は、イギリスへの密留学後、たった1年で帰国した。4カ国から攻撃されたことによって下関を占領され、講和交渉の代表となった高杉の通訳を伊藤が行った。さらに、徳川幕府に恭順する側に支配された藩を転覆しようと、高杉が決起したときに、いの一番に駆けつけたことを伊藤は終生、誇りに思っていたという。すでに明治も40年代に入って70歳前の伊藤は高杉のことをこう詠んでいる。そして、これが高杉の顕彰碑に刻まれた。
動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し
衆目駭然、敢えて正規するものなし、これ我が東行高杉君に非ずや
年老いた伊藤の瞼に高杉の姿が鮮やかに残っていたことがうかがえる。
児玉源太郎の知的軍人としての素顔
そんな高杉に次ぐ長州出身の明治の偉人といえば、児玉源太郎をあげることができる。司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』で、「天才的な戦術家」として取り上げられているように、軍人としてのイメージが強い。
しかし、それだけはない、行政マン、政治家としても優れた能力を持っていただけではなく、「昭和陸軍」が暴走する現況となった、参謀本部、統帥権といった問題を改革しようとしていた。
そのような側面を紹介すべく「明治憲法体制の手直しを試みた児玉源太郎の知的軍人としての素顔」を『児玉源太郎―そこから旅順港は見えるか』(ミネルヴァ書房)著者の北九州市立大学の小林道彦教授に論じていただいた。
さて、明治150年とは言っても、徳川幕府は265年続いた。薩摩や長州はそれだけの間、「関ヶ原の仇(かたき)」という思いを絶やさず灯し続けてきたわけである。
そうすると、賊軍とされた側の人たちの思いも、そんなに早く消えることもないのかもしれない。そのため「反薩長」という言論、主張に対して、我々も真摯に受け止めていかなければならない。
一方で、明治維新や昭和の敗戦に並んで、今再び大きな転換期が訪れていることは間違いない。AI(人工知能)は、日本の屋台骨である自動車産業を根底からひっくり返す可能性がある。そして、アジアの中心は中国や東南アジアに移行し、「Japan passing(素通りされる日本)」と言われる日本は、このままでは名実ともに「極東」において、没落する可能性すらある。そんな転換期だからこそ、同じく大変革期を乗り越えた明治の若者たちにやはり学ぶべきことがあるのではないか。それが、我々が本特集を作成した真の思いである。
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