東の果ての街、チョイバルサン
10月3日。夕刻6時にウランバートルの東バスターミナルを出発した夜行バスは一路東に進む。10月4日の早朝5時頃に目が覚めると払暁の草原の先に街らしき景色が浮かんできた。6時頃にチョイバルサンのバスターミナルに到着。ホテルまで寒空の下、約30分歩く。
ホテルにチェックインして一休み。持参したカップヌードルとお菓子で朝食。9時頃、陽が出て暖かくなってきたので、チョイバルサンの唯一の名所であるハルハ川戦勝記念碑まで小一時間歩く。ハルハ川はノモンハン事件の激戦区の地名である。すなわち、ノモンハン事件戦勝記念碑だ。
無人の荒野に立つ戦勝記念碑
1939年のノモンハン事件では満州国軍・日本帝国陸軍(関東軍)×モンゴル軍・ソ連邦赤軍が戦火を交えたが、圧倒的火力を誇る赤軍機械化部隊により日本軍は潰走。そんな歴史を思い出しながらハルハ川戦勝記念碑を参観。
当時使用された赤軍の戦車や装甲車が保存展示されている。ウランバートルのジューコフ元帥博物館(本編第1回参照)に展示されていた日本兵の標準装備である歩兵銃を思い出した。赤軍機械化師団と日本軍の三八式歩兵銃では最初から勝負にならなかったことは現在の視点からは自明であるが、当時の日本の最高頭脳であった陸軍高級参謀は何を考えていたのだろうか。
商社勤務時代の先輩のY氏の父君は陸士卒の大尉であった。Y氏が後年聞いたところによると、当時の中国戦線では日本軍が三八式歩兵銃に着剣して喚声を上げて突撃すると中国軍(国民党軍)が敗走するという繰り返しであったという。それゆえに、陸軍上層部も関東軍も突撃白兵戦による皇軍無敵神話を無条件に信じていたという。慣れとは恐ろしいもので思考回路が停止してしまったのであろう。無人の草原に佇む記念碑を見ながらY氏の話を思い出した。
博物館の案内人からニイハオと挨拶されて
戦勝記念碑から徒歩10分のところに建つドルノド県博物館を参観。入り口は管理人のオバサン一人だけである。見学通路に沿って中に入るとガイドらしき女性がニイハオと声を掛けてきた。
英語でミュージアム・ガイドと名乗った。しかし英語はほんの片言だけ。大学で授業を取ったので中国語は話せるという。こうしてモンゴル女子から中国語で博物館の展示説明を受けることに。チャンジー・ドゴルン嬢は28歳。大学ではモンゴル史専攻。
元寇について聞くと、モンゴルでは台風のために日本上陸を断念したという単純な解釈が通説のようだ。チャンジーは「強大なモンゴル帝国にとって日本は小さな島国であったのでフビライは日本征服に固執しなかった」と解説。つまり日本は取るに足らない存在であったという。
日本側が当時弱冠18歳の鎌倉幕府の執権北条時宗の下で、蒙古来襲の情報を集め、事前に守備を固めていたこと。それゆえに簡単に上陸できなかった蒙古軍は台風により大損害を被ったことなど筆談を交えて説明したがチャンジー嬢は容易に納得しない。
日本軍の侵攻はノモンハン事件以前にも
博物館の室内展示を見学が終わると、外に出て庭の展示物をチャンジーは案内してくれた。1939年のノモンハン事件による日本軍の大敗以前にも日本軍はモンゴル侵攻を試みたという。この博物館の庭に残っている塹壕はジューコフ将軍の前線司令部跡(コマンダー・キャンプ)だと説明してくれた。塹壕の中を覗くと会議机、電話、地図などが置いてあった。
庭には数台の錆びた乗用車の残骸が放置されていた。赤軍指揮官が使用したものという。なお、日本軍の空襲でチョイバルサン市内にも三発の爆弾が着弾したとのこと。
チャンジーは現代の日本人がノモンハン事件についてどのように認識しているのか非常に興味を持っていた。私はノモンハン事件を大半の日本人は知らないであろうと回答。さらに事件の意義や背景を理解している日本人は極めて少数派であることを説明。チャンジー嬢はなぜ重大な戦争の事実を日本人は知らないのか不思議がっていた。
モンゴル人であれば誰でも知っている一大国難であるノモンハン事件を日本人の大半が知らない。一つの戦争に関する歴史認識が当事者国家間で大きく異なる。歴史認識の当事者間の非対称性を示す典型的な事例であろう。