元寇のエピローグ
チャンジー嬢と話したことで、元寇とノモンハン事件というモンゴル・日本が相手国に侵攻した二つの大事件について考えこんでしまった。ふと書道家の方から聞いた一山一寧という元寇の後に来日した禅宗の高僧を思い出した。
二度の日本侵攻に失敗した皇帝フビライは日本を恭順させるべく親書を託した国使を派遣。一度目は悪天候により難破、二度目は途中で船員が日本行きを拒んで反乱したため失敗。フビライのあと皇帝になった成宗も日本への国使派遣を計画。その国使に選ばれたのが禅宗の高僧一山一寧大師である。
当時の日本では禅宗が盛んとなり鎌倉幕府も禅宗を庇護して中国から禅宗の僧侶を招聘していた。そのような日本の事情を勘案して成宗は当時の第一級の禅僧である一山一寧を国使に任命。
1299年52歳の時に一山一寧は親書を携えて来日。1281年の弘安の役から18年後のことである。鎌倉幕府は一山一寧からモンゴル皇帝の親書を受け取ったが返書を出さずに、一山一寧を伊豆修善寺に幽閉した。当時幕府はモンゴルが再度の武力侵略の意図があると考えており、一山一寧一行の真意を疑っていた。
幽閉されても一山一寧は禅宗の教えを広めることに傾注。彼の人柄と学識を慕って多くの人が修善寺を訪れるようになった。やがて高名は鎌倉幕府にも伝わり幕府の招きで鎌倉に草庵をかまえた。一山一寧の教えを受けるために連日人々が草庵を訪れ名望は益々高まり、幕府は建長寺を再建して一山一寧を住職として迎えた。そして時の執権北条貞時自ら帰依したという。
さらに後宇多上皇の招聘を受けて京都に移り南禅寺の住職となった。一山一寧は学僧であると同時に第一級の文人であり学者であり書道家であった。彼を中心に京都では五山文学が花開き、朱子学を紹介し、現在重要文化財に指定されている墨跡を残している。 さらに臨済宗を広めるべく日本の各地を行脚。こうして正統の臨済禅の興隆に尽力して、母国に帰ることもなく南禅寺で没している。享年70歳。
一山一寧の使命感
この元寇のエピローグを書道家から伺った時に思ったのは、日本に戒律を伝えた鑑真和尚、キリスト教を伝えたフランシスコ・ハビエルと共通する強固な使命感である。
元は漢民族王朝の宋を滅ぼした征服王朝である。そのトップのモンゴル人皇帝の命令とはいえ、漢民族で浙江省出身の高名の学僧であった一山一寧にとり内心忸怩たるものがあったのではないか。命懸けの航海を乗り越えて、日本に無事辿り着いても元に対して警戒心と敵愾心を持っている鎌倉幕府に切り捨てにされる危険もある。
それでも日本行きを決心したのは日本に正統の禅宗を広めたいという崇高な使命感ではないか。鎌倉幕府と朝廷の双方から信頼と厚遇を受けて名刹の住職を歴任し、日本各地に臨済宗の寺を開山。一山一寧の日本への貢献を讃えて花園天皇より一山国師と諡号を与えられた。一山国師はモンゴル人の皇帝が思いもよらなかった成果を残したのである。
蒙古襲来の忌まわしい記憶が残る当時の日本で元と日本の架け橋として献身した後半生であった。
(完)
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