2024年12月3日(火)

古希バックパッカー海外放浪記

2018年7月22日

(2017.9.5~10.15 41日間 総費用18万9000円〈航空券含む〉)

モンゴルと言えば真夏の祭典、ナーダム

 モンゴル最大の祭典、ナーダムは盛夏に繰り広げられる競馬とモンゴル相撲の一大イベントである。このナーダムのイメージがモンゴル文化であるとモンゴルを1カ月余り歩いて実感した。

 モンゴルの首都ウランバートルは地理的にもモンゴル国土の中央付近に位置しており、東西南北の地方に移動するのは長距離バスである。半日から一昼夜の長丁場をバスに揺られて移動することになる。

モンゴル最西端の町ホブドのカラオケバー。この小さな町には似つかわしくないやけに立派なカラオケバーがあちこちに乱立。どこも町でも同様である

 この長距離バスでは必ずと言っていいほど毎度バスのモニターでモンゴル歌謡ショー的プログラムが延々と放映される。歌謡ショーの男性歌手はおしなべて偉丈夫で力士のような体格で朗々と歌い上げる。男は太マッチョがモンゴル人の理想像なのであろう。

 日本の大相撲一行がモンゴルを訪問したときに、当時の大関魁皇が理想的ハンサムボーイとしてモンゴル女性から熱烈なラブコールを送られたというエピソードを思い出す。

 そして歌謡の背景として映し出されるのは、偉丈夫の歌手が馬にまたがり草原を疾走したり、曲乗りするモチーフが多い。ちなみに1カ月余りの旅行期間中、馬に乗れないというモンゴル人男性に会ったことがない。

 ジンギス・ハーンが偉大なる英雄として崇敬をあつめるのは、彼の業績だけでなく彼の風貌や大きな体格、そして騎乗して草原を疾走するイメージがモンゴル人の理想を体現しているからではないか。

ホブドの現在の町の外れに残る中国の清朝時代の城壁。城壁に囲まれた数キロ四方の城市(都市)に清朝の総督・役人・軍人が居住していた。城壁(土塁)は清朝によるモンゴル支配の名残である

きわめてモンゴル的長距離バスの旅

 長距離バス移動は半日から一昼夜を要する長丁場である。夕刻出発便で翌朝着というスケジュールが多い。この場合は午後8時頃に数軒の食堂が並んでいる街道脇で一時間近くディナー休憩となる。草原のド真ん中ではゲル(モンゴル風テント)の中で肉饅頭やボーズ(肉餃子)やツイワン(肉焼うどん)という簡単な料理とモンゴル茶を頂く。この休憩タイムに乗客は適宜夕食とトイレを済ませる。トイレはせいぜい街道脇の掘立小屋で隙間風ビュービューである。

 深夜までバスは草原を疾走して夜半に突然停止する。夜中のトイレタイムである。この場合は満天下の草原に乗客は各自自由に展開して用を足すことになる。女性もバスから50メートルくらい歩いて適宜用を足している。

 満天の星空の下での用足しで遊牧民的解放感を堪能することができる。日本人のルーツについて“北方騎馬民族”という学説があるが、満天の草原で用を足していると北方騎馬民族のDNAが甦ってくる。

ホブドの町外れのカラオケバー。とにかく町の規模に不相応な豪華さである。午後4時くらいからカラオケタイムが始まり朗々たる歌声が漏れ聞こえてくる。

北西部の街ムルンでモンゴル的バカンス

 9月28日。その名も“バイカル・ゲストハウス”という安宿にチェックイン。ムルンの街には鄙びた郷土博物館とラマ教(チベット仏教)のお寺があるだけで、草原の向こうに山脈が連なっているという典型的なモンゴルの地方の町である。

 散歩して郷土博物館とお寺を見てしまうと何もすることがない。ゲストハウスに戻ると、部屋がとにかく寒いので薪ストーブを焚いてもらう。暖かくなってきたので雑貨屋で仕入れてきたビールを頂く。太陽が出て暖かくなってきたので、白樺の木で囲まれた庭のベンチで、モンゴルウヲッカをチビチビやりながら持参した“カラマーゾフの兄弟 第2巻”を読む。モンゴルの碧空の下で読むと三男の崇高な精神が心に沁みる。

 9月29日。とにかく何もすることがないので朝寝坊。11時過ぎに村の食堂でビーフ・シチューのようなゴリヤシ(ハンガリーの郷土料理が伝わったらしい。ポテトサラダとライスが添え物として供される)を食べてお茶を飲んでから散歩。

 2時半頃ゲストハウスに戻り、雑貨屋で仕入れたモンゴルウオッカとオレンジジュースでスクリュードライバーを試みた。薪ストーブのお陰で快適であった。

モンゴル草原に日が暮れる。チベット仏教の極楽譲渡を思わせる残照である

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