老舗ホテルに残る第二次世界大戦の傷跡
6月18日。セントパンクラス・ルネサンス・ホテルは1873年に隣接するセントパンクラス駅のステーションホテルとして開業した。
ビクトリア朝ゴシック様式の壮麗な外観に誘われてロビーに入ると一気に19世紀末のビクトリア朝時代にワープ。鉄骨のアーチで支えられたガラス天井は当時の最新技術の粋である。
ベテランのベルボーイに聞くと、駅とホテルは開業当時の建物をそのまま使用しており大規模な改装工事はしていないという。唯一の例外としてバーの上のガラス天井だけは第二次世界大戦中にドイツ軍のVⅡロケットにより崩落したので戦後修復したという。正面玄関もドイツ空軍機の銃撃を受けたが、弾痕の一部は修復しないで歴史の教訓として残しているとの説明であった。
ロンドン大空襲、イングランド銀行も間一髪
ロンドンの金融街、シティーのド真ん中にイングランド銀行がある。一般公開されている展示コーナーには第二次世界大戦中のロンドン大空襲(The Blitz)時のシティーの写真がある。
ドイツ空軍の夜間爆撃の最中、消防隊が決死の消火活動をしている。空襲の翌日。イングランド銀行の隣の敷地に大穴が空いて周囲は瓦礫の山と化していた。
王立英国空軍(RAF)を讃える慰霊碑
6月20日。テムズ河畔のスコットランドヤード(ロンドン警視庁)の付近に王立英国空軍(Royal Air Force=RAF)の“バトル・オブ・ブリテン”(Battle of Britain)記念碑が立っていた。
ヒットラーは開戦当初英国本土上陸作戦を策定。事前に英国の軍事拠点を破壊するべくドイツ空軍の総力を挙げて空爆を遂行。ドイツ空軍を迎え撃ったのがRAFである。
これがバトル・オブ・ブリテンと呼ばれる一大航空決戦である。石碑には1940年の7月1日~10月31日と刻まれていた。四か月間にわたる航空兵力の総力戦であった。バトル・オブ・ブリテンの勝利により破竹の勢いのナチスドイツの上陸を阻止して連合軍反転攻勢の契機となった。
RAFではパイロット及び乗組員として2936人が参加し544人が戦死。そしてRAFの航空機の乗員の6人に1人が外国人義勇兵であったと記録されていた。多くの外人パイロットが義勇兵として参戦した史実に興味を抱いた。
教会の前庭になぜ軍人の銅像が立っているのか
6月24日。ストランド通りの王立裁判所近くの聖デーン・クレメント教会に立ち寄った。現在の建物は1682年完成という由緒あるイギリス国教教会。教会のボランティアに話を聞くと、教会は1941年にドイツ空軍による“ロンドン大空襲”(The Blitz)で内部が焼失した。
The Blitzとはヒットラーが英国民の戦意喪失を狙って1940年9月から8カ月間にわたり継続したロンドンを中心とした空爆作戦である。RAFの寄付により1958年に修復されてからRAFの中央教会(Central Church)となった。
教会の床石に刻まれた空の英雄
教会の床石にはモザイクのように様々な紋章が描かれている。ボランティアの説明では第二次世界大戦中のRAFの飛行基地、飛行連隊、中隊などの記章(badge)であるという。
ニュージーランド、カナダ、オーストラリア、南アなど英連邦出身者の部隊、さらにオランダ、チェコ、ベルギー、フランスなどドイツ軍占領地域出身の外人部隊の記章もある。そして最も目を引いたのはポーランド空軍の記章である。壁に貼られた解説に拠るとポーランド人パイロットが約150人所属していたようだ。
1939年ドイツ機甲師団の電撃作戦により占領されたポーランドはロンドンに亡命政府を樹立。祖国から逃れたポーランド軍人が対独戦遂行のために挙ってRAFに志願したという。