イランの核・原子力分野の経験は日本より古い
鳩山氏は、いかにもイランがNPTやIAEAの初心者のように思っておられるようである。だが、実はイランの核・原子力分野の経験は日本よりむしろ古い。
1953年のアイゼンハワー米大統領の「アトムズ・フォー・ピース」提案に応じて、イランは、当時パーレビ国王(シャー)の時代だったが、いち早く原子力平和利用活動に着手し、57年に米国と原子力協力協定を結んだ。NPTには、1968年の国連総会で同条約が採択され各国の署名のために開放されたときに真っ先に署名し、同条約が発効する前の70年2月に批准も了している。その意味で最も古い加盟国の1つだ。
日本にとっての「やむを得ない事情」
他方日本は、同条約に入るべきかどうかをめぐる国内の論議が長引き、70年2月にようやく署名に漕ぎ着けたが、批准はさらに遅れて76年。その間、国内には、将来の国際政治状況がどうなるか判然としないのに「核のオプション」を放棄するのは不得策だという議論がかなり多かった。
偶々筆者は外務省で、60年代から約20年間、核・原子力外交を担当していたから、この辺の事情はよく記憶しているが、決して最初からNPT/IAEA体制に諸手を挙げて賛成していたわけではなく、迷いに迷った上での苦渋の選択であった。たとえ不平等条約であっても、NPTに入らなければ、米欧先進国からの原子力技術や機材の輸入が出来ないという止むを得ない事情もあった。
模範生となった日本
もちろん、一旦加盟してからは、国際的責任を自覚し、NPT/IAEA体制の模範生と言われる実績を築き上げてきたのだが、決して常に平坦な道ではなかった。
しかも、安全保障の面でも、日本はもう一つの苦渋の選択を強いられた。64年の中国の核実験成功を契機に対中警戒心が強まり、国内には「自主核武装論」まで飛び出した。
いちいち名前を挙げるのは憚られるが、今は亡き三島由紀夫、清水幾太郎などの知識人や自民党を中心とする政界にもそうしたタカ派的主張が強かった。それを、佐藤栄作元首相時代に、沖縄返還交渉の絡みもあって、「非核3原則」で自ら核武装の道を断念し、日米安保体制の下、米国の核抑止力(いわゆる「核の傘」)に依存する道を選んだ。この体制は現在も日本の安全保障政策の柱として厳然として続いている。
イスラエルの存在で米イラン関係はより複雑に
他方、イランは、1979年の「イスラム革命」で王制が倒れ、イスラム教支配体制の国家に一変。以後米国との関係は悪化し、国交断絶のまま今日に至っている。しかも、イスラエル問題の存在が米イラン関係をさらに複雑なものにしている。米欧諸国は第2次世界大戦以来の経緯もあって、イスラエルを見殺しにはできない。
とくに米国にはユダヤ教勢力がつよく、政治・経済面で隠然たる影響力を持っている。イスラエル・パレスチナ紛争を含む中東和平問題は、歴代の米国政権の頭痛の種で、オバマ政権も手こずっている。
各国が核武装に走る「悪夢の核拡散シナリオ」
もう1つイラン問題を難しくしているのはイスラム教の宗派的な対立である。同じイスラム教国家と言っても、シーア派が圧倒的に強いイランと、スンニ派が優勢なその他の中東諸国の関係は極めて複雑だ。特にシーア派のイランでは宗教法学者の力が強く、原理主義的。79年の革命を指導したホメイニ師は絶対的存在だったが、現在のハメネイ師も強い影響力を持つようだ。それが反米、反西欧的な外交姿勢の基盤にある。