現代のツァーリ(皇帝)は大統領復帰にあたり、恩師の娘の反逆に直面していたのである。
KGBから足を洗ったプーチン
法学博士として法曹界でも活躍したアナートリーは、1993年に制定されたロシア憲法の起草者の1人となった。共産主義の過去を断ち切り、民主主義の原則を守ることを誓ったこの憲法を、当時、メディアは「サプチャク憲法」とも呼んだ。
レニングラード大学法学部出身の第2、第4代大統領のプーチン、第3代大統領のメドベージェフはアナートリーの教え子だ。図らずも、2人はクレムリンで行われる就任式の際に、恩師が民主主義の魂を込めた憲法に手をかざし、大統領の就任宣誓を行う。
80年代末、東ドイツのドレスデンでKGBのスパイとして諜報活動を行っていたプーチンは、この巨大秘密組織に未来がないことを悟り、失意のまま、故郷のレニングラードに帰った。大学に籍を置き、博士論文の準備に取りかかっていたとき、市議会の要職に就いていた恩師に声をかけられる。
プーチンは大学時代にアナートリーと特段、仲が良かったわけではない。「一学期か二学期に、講義を受けた教師の1人」という程度だという。優秀な人材を自らのスタッフとして引き入れることに苦心していたアナートリーは、外国で勤務したこともあるニヒルで無口な男に目をつけたのである。
メドベージェフ、イワノフ、クドリン…
エリートたちもサンクトペテルブルグ派
KGB将校として確固たる地位につき、待遇もよかったプーチンは当初、傑出した政治家だが直情的な性格のアナートリーに自分の未来を託すことを躊躇した。しかし、KGBに幻滅していた彼は、恩師の熱心な誘いもあって、スパイから足を洗うことを決意した。
市役所に就職したプーチンは、アナートリーの補佐役として、そして、ソ連崩壊後の故郷の再建責任者として、身を粉にして働いた。アナートリーは有能な官史ぶりを認め、プーチンに第一副市長の座も与えた。アナートリーの命を受け、市役所に入庁した仲間たちと、苦難の時代を共に過ごした。
メドベージェフ、イワノフ(現大統領府長官)、クドリン(元財務相)、ズプコフ(元首相)、セーチン(前副首相)…。そうそうたる面々はいずれも国家を牛耳るエリートたちである。サンクトペテルブルグ派との呼び名もある彼らは、サプチャク市長時代に結束が培われたものだ。きっと彼らのうちの誰かは、幼少時代のクセーニアを知っているに違いない。
アナートリーの落選とプーチンの政界進出
第2回市長選が開かれた1996年、アナートリーは落選した。捜査当局に国家資産横領の嫌疑もかけられ、一時的にパリに亡命もした。一緒に第一副市長の座も追われたプーチンはその後、モスクワに引き抜かれ、華麗なる転身を遂げる。