レアメタルの仕事でペルー・クスコに行った途中、約40年ぶりにリマに立ち寄った。ここは思い出の詰まった街だ。初めて訪れたのは1973年頃だったろうか。世界放浪の末に天野芳太郎さん(1898~1982年=明治31~昭和57年)に会いに行ったのが縁の始まりだった。
日本を出発する前に父方の叔父が、当時三菱金属(現三菱マテリアル)に勤務しており、南米の仕事の関係から天野さんを紹介してくれたのだった。
天野さんは、戦前パナマを拠点にしてビジネスをはじめ、チリ(農業)、コスタリカ(漁業)、エクアドル(製薬業)、ペルー(金融業)など南米各地に事業を広げて成功させた。
ところが、41年、日米が開戦すると、アメリカ側に拘束されて収容所生活を送り、交換船で日本に送還された。残されたビジネスの権益は、この戦争時に全て剥奪されたとも聞いた。
戦後は占領米軍のキャンプで働きながらドルを蓄え、再び南米の地ペルーに渡り、再度事業を成功させた。戦前からインカ文明など南米各地の遺跡を回っていた天野さんは、戦後はより活発に遺跡調査、遺物の収集を進めた。そして64年、リマに「天野博物館」を創設した。
私が初めて訪れたとき、天野さんは自ら博物館の館内を案内して下さった。実業家というよりも学者風の雰囲気でインカ文明の話を熱心に話して下さった。それから約10年後(82年)、天野さんは帰らぬ人となった。夫人の美代子さんは、天野さんが全財産をかけて収集した遺物が「インカの文化財に化けてしまった」といって笑っておられた。
現代日本人にも必要な 逆境での強さ
今回の訪問でも、天野博物館は健在だった。アポなしで美代子館長にもお会いした。博物館を案内してもらいながら、再び記憶が甦った。
天野さんは、押川春浪(明治時代の冒険小説家。1876~1914年)に憧れて南米を目指したといっておられた。ところが、アメリカから送還された後、「押川春浪を調べたら、一度も海外には出たことがなかったと知って唖然とした」と笑っておられた。