どんな場所で生きようと、マジックという軸を守ってきた松山の能力は業界での認知度を高めていたのだろう。サーカスでの修業を経た松山に舞い込んだのは、タレント志望の若い女の子にマジックを教えてほしいという依頼だった。朝風まり、後の2代目引田天功である。初代天功の急死を受けて、いきなり2代目を襲名した天功を技術的にサポートしながら、自らが夢見たイリュージョニストに天功を創り上げていく。やがて、松山が創り上げたイリュージョン「新・人造人間」が89年に世界で認められ、天功は「Magician of the Year」を獲得。それを機に、プリンセス・テンコーと名前を変え、“裏天功”と呼ばれていた30歳の松山もその役目に自らピリオドを打っている。追い求めたイリュージョンが世界で評価されたとはいえ、自分の立ち位置は表ではなく裏方。自らがイリュージョニストになる夢との折り合いはどうつけたのだろうか。
「自分は本当に表に出たいのか……発案や仕掛けの設計に携わってショーを創り上げるのも面白いかもしれないと思うようになっていったのかもしれないですね」
思ったのか、思うようにしていたのか……。しかし、ショーの企画制作会社を起こした松山に依頼される仕事は、せっかく結成した「デューク&ウィザード」という表の顔ではなく仕掛けを考えてほしいという注文が多い。
「それならいっそ表を諦めて、マジックを三次元的特殊効果と捉えて3D-SFX事業を展開し、大規模なマジック空間を創り上げてみようと気持ちを切り替えました」
手始めは、千葉にあるテーマパークへの営業。偶然にも電話に出たのがかつて天功の仕事をしていた時にかかわりをもった人だった。その繋がりで開園10周年の大がかりなイリュージョンでキャラクターを8メートルの空中から登場させる仕掛けを造り上げて大成功。物理学的に無理、という注文を可能にするために、機械設計の専門家のサポートを受けながら、3D-SFX部門とイリュージョンの両輪で新たな希望に向かう。
「自分にとって掲げる旗が明確に立ったエポックメイキングな仕事でした」