未来に育つ種をまく
石ノ森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄などさまざまな若い才能が寄り集まって暮らし、それぞれが巨匠として開花した「トキワ荘」のように、上京した竹宮は練馬区大泉の長屋で、福岡からやってきた同世代の萩尾望都(もと)と同居し、やがてふたりを慕う女性の若手が集まって「大泉サロン」を形成していくことになった。竹宮も萩尾も瞬く間にスター作家になり、“花の24年”*と呼ばれた作家たちによって少女漫画はすさまじい速さで質的転換を果たすのだが、そのあまりの急激さが竹宮をスランプと激烈な苦難の日々に投げ込むことにもなったともいえる。
第一世代から第二世代に移行する過程で噴出したたくさんの才能で、日本における漫画の位置づけもまた大きく変わっていった。親や教師から嘆かわしいとまでいわれた漫画やアニメは、今では世界に誇る日本文化の中心的存在になり、クールジャパンとして政府をあげて漫画文化の世界輸出を図る時代を迎えている。
しかし、お膝元である日本で漫画文化は枯れかかっているのではないかと危惧する声もちらほら聞こえてくる。漫画の売り上げもかつてほどの勢いがなくなったとの指摘もある。竹宮もまたそんな危機を感じていたという。
「メディアミックスで漫画業界は大きく膨らんだけれど、ヒットするものだけが取り上げられ、地味なものは世に出にくくなる傾向はありました。描く側の思いに関心が寄せられなくなってきていた。同時に編集者が漫画家を育てることができなくなってもいました。漫画を描く上での基本がないがしろにされて、本人が気づかないばかりかそれを指摘する人もいない。このままでは『ドラえもん』のような児童漫画がなくなってしまうという危機感は私の中にありました。児童漫画は決して基本から外れた誤用があってはいけないんです。描き手から教育の現場に身を置くことになったのは、そんな状況に説得されたのかもしれませんね」
大木には育ったものの、売れ筋だけの追求で土壌の潤沢さが損なわれ、着実な根の張りも弱くなっているのではないか。次代に継承し、竹宮が石ノ森章太郎から受け取った「漫画は何でもできる」というメッセージが生きる豊かなフィールドを再構築するために、若い人に伝えなければならないことがある。
「大学が巨大なトキワ荘や大泉サロンになれればいいなあと思っているんです」
学生を見ていると、やるべきことが見えてくるという。見えたことに突き進むと課題にぶつかる。大学教授としての日々は、課題をクリアするための年月だったと振り返った。
*竹宮惠子、萩尾望都、大島弓子、山岸凉子ら、1949(昭和24)年前後に生まれ、70年代に少女漫画の革新を担った作家たち