「あと新幹線の中のアイスクリーム。あれも好きなんですよ」
と岩井さんは笑う。
蒲田駅近くの町工場が密集する地区に、岩井さんが経営する、岩井製作所がある。トタン葺きの飾らない佇まい。わずか10畳ほどの作業場には大型旋盤などの工作機械がところ狭しと並ぶ。こういっては失礼だが、とても新幹線を支える精密な部品を作っている場所には見えない。しかし、ここで作られた金属製品は、数々の国家プロジェクトを支えてきた。
岩井さんはこの機械で金属を加工してきた
父の代から、この土地で板金業を営んでいた。だが岩井さんは「若いころは職人を継ぐつもりはなかった」と話す。というのは岩井さんの父親は東京・神田の生まれで、宵越しの金はもたない典型的な江戸っ子。苦労し通しの母親は、いつも岩井さんに「お願いだから、勤め人になってくれ」と言っていた。
母の頼みをきいて、一度は会社員となったが、やがて職人の血が騒いだ。旋盤ひとつを購入して、腕ひとつで稼げる金属加工の世界に入った。1970年代初頭のことだった。
日本の成長とともに
時代は、高度成長期。まもなく岩井さんに、原子力発電所に関わる仕事がもちこまれた。国産初の原子炉を造る計画があり、緊急時に燃料棒を制御する装置のシリンダーの加工を依頼されたのだ。長さ1メートル、内径が20センチ台のシリンダーを、100分の1ミリ以内の誤差で仕上げなければいけない。出力50万キロワットほどの原子炉で、必要な数は約100本。加工賃を、当時のサラリーマンの初任給と同等の2万円としたが、1本の材料費が27万円。不良品を作れば、会社がつぶれかねなかった。そのうえ依頼主からは「20万人の命に関わる部品だから」と念を押された。失敗する夢を見て、夜中に目覚めたこともあった。