1953年に日本で上映されたハリウッド映画「原子怪獣現わる」はゴジラのストーリーとイメージ形成に大きな影響を与えた。北極の凍土で眠っていた恐竜が核実験で目を覚まし、ニューヨークに現れてビルを破壊して歩くという設定で、東宝映画の田中友幸プロデューサーと円谷英二氏は映画に触発され本多猪四郎監督を引き込んで翌年、日本的趣を加えた「ゴジラ」を作り上げた。この映画の中国語訳名は「原子恐竜」だった。
「人類の破壊者」から
「日本社会の保護者」へと転換?
拡大画像表示
「ゴジラ」という名前はもともと「ゴリラ」と「クジラ」を合わせた円谷英二氏による創作だ。円谷氏は巨大な体とパワーを持ち、海からやってくるので「ゴジラ」という言葉を使ったという。1954年にアメリカで上映される際に英語名Godzillaが定着した。
映画の中で描かれるゴジラは、放射能による染色体異常の強大な古代の生物であり、圧倒的な破壊力を持つ。それは日本軍国主義が危機感に満ちた海洋国家としての日本で生まれたのに似ており、アジアの隣国に凄惨な被害を与えたが最後は米国によって広島、長崎への2つの原爆によって鎮圧された。日本の軍国主義体制は、米国にソ連や中国と対抗するという私心があったために完全に清算されることはなかった。天皇制を残したことや手緩い東京裁判がそれを物語る。
1954年の映画では正体不明の生物が漁船を襲うところから始まり、都市を襲うが、芹沢博士が発明した「武器」によって海に戻っていく反戦的色彩もある。1954年3月にビキニ島で行われた原爆実験に対する抗議の意味もあった。漁船第五福竜丸は放射能を浴び、船員たちは半年後に亡くなったのだ。本多猪四郎監督は原爆投下に遭った広島を車で通りかかり、人間地獄の惨状を目のあたりにして彼はこうした情景を「ゴジラ」に取り入れ、人類破滅をもたらすものとして描いた。
1954年にゴジラが上映され、日本でブームを引き起こした。広島、長崎の原爆投下で恐怖心を抱いていた日本の国民の間に映画を通じて憤懣やるかたない気持ちを発散させたのだ。1億5000万円という当時破格の興行記録を打ち立て、動員客数も961万人を達成した。