「ゲーム王国ニッポン」の凋落
海外ゲームが国内で売れないだけでなく、日本製のゲームもかつてほど海外では売れていない。吉田氏は、日本のゲームが世界で勝てなくなってきた時期を00年代初頭と指摘する。きっかけはプレイステーション2(PS2)の発売だ。
「00年3月に発売されたPS2はマシンの性能が飛躍的に上がったため、性能に合わせたゲームソフトの開発に、より多くの費用、時間、そして人員が必要となりました。だけど開発費が2倍になったからといって、ソフトが2倍売れるわけじゃないですよね」。そんな状況下、01年にNTT docomoのiアプリが登場し、大ブレイクを果たす。ライトなゲームユーザーは、何千円もする重厚長大なゲームソフトから離れ、月額たった300円で楽しめる手軽なミニゲームに余暇時間を割くようになったのだ。携帯電話の爆発的な普及期であったことも、その傾向に拍車をかけた。
PS2にDVD再生機能が搭載されていた点も無視できない。当時はまだ高価だったDVD専用プレーヤー代わりの「最も安価なDVDプレーヤー」として、PS2で映画ソフトを観るユーザーが激増。皮肉なことに、PS2自身が消費者をゲームから遠ざけたのである。
開発費が上がり、しかもかつてのようにソフトが売れないとなれば、ゲームソフトメーカーの経営は守りに入る。野心的・革新的な企画よりも、堅い売れ行きが見込める無難な企画が多くなるのは当然の帰結。この時期からゲーム業界は「従前のヒット作の続編」や「有名アニメの原作もの」ばかりを連発するようになる。
下手にオリジナルの新作を開発するより続編を作った方が安全。たとえ前作の8掛けしか売れなくても、大コケするよりまし─そんな考えがゲームソフト業界を覆っていった。実際、「90年代にはゲームっ子だったのに、PS2発売直後くらいからゲームから離れた」という現在20~30代の男性は多い。00年代前半に新鮮味のないソフトばかりが発売され、うんざりしはじめたのだ。当然、「ゲーム王国ニッポン」の海外での評判も、徐々に陰りが見え始める。
そんなとき、彗星のごとく登場したのが、01年10月にPS2で北米版が発売された『グランド・セフト・オートⅢ』だった。「自分が悪役になれる。街を自由に動きまわれる。大人が遊べる画期的なゲームだった」(吉田氏)。
『GTA Ⅲ』の世界的ヒットを機に、海外ゲームの市場は急伸長を遂げていく。のちに『GTA』と並ぶ大ヒットシリーズに成長する『コール オブ デューティ』の1作目が登場したのは2年後の03年。以降、世界市場における日本と海外の地位は逆転する。