「森には、伐られたまま捨てられた木がたくさんありました。『もったいなか』と思いました。こういう運びにくい木を出さずにどんどん伐っていたら、将来どこに木が残るのか。班長になった頃、そう言ったんですが、周りからは、あほ呼ばわりされました」
島そのものが急峻な山である屋久島では、川は滝のようで、木は割って運び出すしかなかった。江戸時代に割れなかった木は山に放っておかれ、根元も割れないから捨てられた。伐ったあと他の木に引っかかって宙ぶらりんになったものや、台風で倒れた木もたくさんあった。これらは総称して、後に土埋木と呼ばれた。
土埋木は資材としての価値に問題はないが、伐る、倒す、割る、運び出すという作業は、生えている木を伐り出すよりも格段に難しい。1本10トンに及ぶ土埋木もざらであり、もっとも安全な方法は、障害物は、カネになる部分を傷つけないためには―ということを、すべてケースバイケースで判断し、対処する技術も求められるからだ。成木を伐れば手っ取り早いのにと、高田は「あほ呼ばわり」されたのだ。
しかし10人あまりの高田班は、目標として割り当てられた材積の中に、土埋木を含め始めた。「100立方メートルを出すうち、難儀してでも土埋木を10立方出せば、その分、山に木が残ります。もっと時間をかけて、山から木をいただくことができます」。それでも高田班は、成木だけを伐る他の班と同じ時間で同じ材積を達成できたという。今も高田の下で働く木こりは『次元が違うんです。先の先まで読む人はいるけど、(高田は)現場で50本先の作業まで考えている。だから早く安全に土埋木を出せる』と言う。高田の力があればこそ、可能となる芸当だった。
のみならず髙田は、スギの実生(苗)も植え始めた。スギの子(実生)は、コケからしか生まれない。土埋木についたコケをはぐとき、高田はコケから生えたスギの子を、丈夫に育ちそうなところに持っていき、植えた。これまた、多くの林業関係者には余計な手間なのだろう。他の木こりの下で働いてから高田の下に就いた経験のある人は、『そんなことをしているのは高田だけ』と話す。
ヤクスギによって支えられる島の経済、ひいては島の生活を守りながら、将来の世代に向けて森を守る。「自分がいる間さえ」を象徴するかのような役所による伐採奨励期の最中から、成木を伐ることが禁じられて土埋木しか出せなくなった今に至るまでの40年近く、高田はそのことをまっすぐに続けてきた。
どっちみち裸で生まれてきたんだから、
裸で生きればいい。
高田が「自分のいる間さえよければいい」と考えないのはなぜか。