数々の取り締まりと「中国的法治」
そこで「反スパイ法」草案作成のプロセスで発生した「スパイ容疑事件」、機密漏えい事件について触れる必要があろう。アメリカの国家安全保障局(NSA)職員だったスノーデン氏による告発は世界各国に激震をもたらしたが、中国においても例外ではなかろう。しかし、スノーデン事件が中国当局に与えた影響について伝えられることが皆無なため、影響の有無を推しはかる事はできないが、少なくとも中国国内で起きた一連の機密漏えい事件は「反スパイ法」制定のプロセスにおいて特記すべき事である。
中国社会科学院日本研究所の金熙徳研究員が身柄を拘束された事件が有名だが、日本で活躍する中国研究者である朱建栄教授の「行方不明」も注目を浴びた。また党中央の「党中央弁庁9号文件」文書(普遍的価値など7つを語るなという内部通達)全文を香港誌がすっぱ抜いた事件もある。この件で国家機密を外国に提供したとしてジャーナリストの高瑜女史が身柄を拘束された。広東省広州市では外国人に軍の内部発行誌を渡したとして男性が逮捕され、比較的大きく報道された。また著名なニュースキャスター・芮成鋼(ゼイ・セイゴウ)氏が身柄を拘束された件でも周永康や令計画と繋がる汚職容疑という見方と同時に彼が欧米の「スパイだった」という憶測も出ている。
中国の駐アイスランド大使・馬継生夫妻が突然姿を消した事件もある。彼も機密漏えい容疑で拘束されている可能性が指摘されるが、馬元大使は日本の大使館でも勤務経験があり、スパイ容疑がかけられているとされる。また北朝鮮との国境近くでカフェを経営していたカナダ人夫妻が行方不明になった件にもスパイ容疑がかけられているとされる。
こうした取り締まりを見ると、中国共産党政権が如何に党の統治を弱める要素になりそうな事象に対して強い警戒感を抱いているかが窺えるが、こうした措置が意図的に採られている可能性も否定できない。法草案策定時期と並行して立て続けにこうした事件が起きており、「反スパイ法」制定のために世論誘導が行われたのではないかとさえ思える。
国家安全部や公安部は「機密漏えい」摘発に並々ならぬ努力を見せつけたが、こうした動きには中国国内で激化しているイデオロギー論争の影響もあるかもしれない。「南方週末」紙年始の巻頭言を巡る保守派とリベラル派の間の憲政論争では当局による規制もあり、リベラル派の分が悪い。リベラルな歴史学術誌「炎黄春秋」誌に対しても圧力が強まっており、追いつめられつつある。同誌副社長の楊継縄氏による大躍進政策(1950年代)で発生した飢饉で3600万人が死去したという主張は、保守派から猛烈なバッシングを受けている。保守派からすれば、こうしたグループは外国と結託し、「外部勢力の浸透」を助けているというわけだ。香港での学生デモも国内引き締めに影響しているかもしれない。
また、汚職取り締まりに絡んだ頻繁な人事異動や、政府の機構改革も係争激化に油を注いでいるようだ。前述のような複数の機関が整理統合されるのを防ぐために功績と組織存続を争っている可能性は排除できない。単なる周永康後の指導権争いに止まらない事情がありそうだ。
中国共産党当局による「外部勢力の浸透」への声高な主張は欧米的な普遍価値の浸透を恐れる党内守旧派の危機感の表れでもある。それが「反スパイ法」という形で「中国的法治」のあり方を示したのはパラドックス的だ。「法治」が進むほど市民生活に対する統制が強まるのは皮肉である。
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